瞑想は極楽の湯

誤って十分に暖められていない風呂に入ったとしよう。冷たいと人は感じるだろう。仮に20℃だったとして、明確に冷たく感じられる水を温めるためには、20℃よりも高い湯を注ぐ必要がある。20℃に20℃を入れても20℃だからである。瞑想も同じこと。自我の性質に自我であれこれかき混ぜても、永遠に自我である。八正道のような宗教が教える訓戒は、自我への教えである。つまりメンタル的に善悪を教える試みである。では、悪に傾いている人間を善に変えるのは何か。その悪より高い波動であり、それが器に注がれた結果である。

悪人が「これからは正しく生きたい」と悔い改めたとしよう。悪い行いを善い行いに置き換えようと試みたとしよう。努力になるなら成功は見込めぬが、自然と善への意志が起こり、悪ではなく善を表現することに苦痛の緩和と心地よさを見出すならば、悪より高い波動の受け入れに多少なりとも成功し、気分においても感覚においても楽になるだろう。ただ、訓戒の実践は、今言ったように自然な意志で起こる場合のみ成功する。言い換えると、20℃よりも高い温度が注がれ(ある出来事や感情でそのようなトリガーが引かれ)、注がれるものに抵抗する者がもはやおらず、それと調和したときだけ冷水は暖められる。理論だけで訓戒を実践する場合は、20℃に20℃を試みるようなものであり、温まらない。波動は高められない。注ぐものの由来の違いなのである。

20℃でも、もし慣れるならば冷たくなくなるだろう。自我でも、慣れるならば苦痛を感じないだろう。より暖かいものを知るがゆえ、相対的に冷たさを理解できる。自我が自我の間違いや錯覚に気づくのは、より高い波動を持つ教えに触れたときのみである。教えが書物のようなものを通した理論であるならば、それは20℃とは言わないが、21℃とか22℃ぐらいだろう。あまり変化しないということである。変化させるには熱が足りない。したがって、そのうち対象の理論の実践は失敗として諦められる。20℃には、やけどしない程度に、明確に熱いお湯を注がねばならない。波動は高すぎてもよくない。20℃の浴槽につかりながら温める場合、60℃以上であれば局所接触でもやけどの確率が高まるだろう。その体が耐えられるレベルの波動でなければならない。魂はこれをよく理解しており、霊的エネルギーをほどよい熱にステップダウンして人間に送り込むことができる。それでも、慣れぬうちは長時間の接触を避けて、霊的にやけどしないよう、賢明さとバランス感覚が必要である。努力で霊的達成が得られると勘違いする者や、逃避のために瞑想する者は、長時間の熱湯でやけどするはめになるだろう。それでもやめないならば人体は破損するだろう。

注意深さが弟子道の基本であることに疑いはない。ここで役立つのは常識的で客観的に思考できる明晰な頭である。どの程度なら安全で、度を越すのがどこからかを判断できる頭である。高い波動なら何でもいいわけではない。高すぎる波動が流れるならば即死するだろう。諸体を高い波動に慣らすときも、長時間であれば賢明ではない。瞑想しているとき、40分とか、ある程度で止めどきを感じるだろう。そのような節度を守るべきである。これは誤った動機から瞑想をやりすぎている者、瞑想と奉仕のバランスが取れていない者がいるため言っている。

一方で、入浴不足の者も多い。672夜を読みすぎている。21℃や22℃と接触しても変わらない。読むより、瞑想で、やけどしない程度のプラス20℃ぐらいの波動に入浴すべきである。40℃が20℃を徐々に暖めることを知り、慣れてきたら45℃など、徐々に高い波動に切り替えるべきである。高い波動に慣れ、それが通常になり、十分に器が温まったとき、燃焼させる度外れた高熱を受け入れる準備が整うだろう。神に耐えられるほどの器に仕上がるだろう。

自身がまだ20℃なのに、20℃近辺しか入れていない者が多く、より高位の暖かい意識に入るためには、極楽とも言うべき湯に暖められるためには、もっと飛躍して、プラス20℃の波動を受け入れるような器にならねばならない。瞑想がしていることは、そういうことである。人体を温めるには熱すぎてもだめで、適温がある。その適温に暖められることが幸せだと感じるようにならねばならない。20℃に慣れた身からすれば、40℃でも熱いだろうが、短い瞑想を日に一度か二度ばかり行う習慣をつけることで、数年もすれば40℃ですら物足りなくなるであろう。そして、ある温度で、魂の温度と同じになったことを理解するだろう。このとき融合するだろう。

どう説明しても理解しない者に、日常的な比喩で昨日、或る者に説明した喩えを改良して書いた。低い波動に高い波動を適用するという基本、そうでなくして低い波動が高くなりえないこと、低い波動で低い波動を扱ってもほとんど意味がないこと、自我で自我を扱っても意味がないことを理解せねばならない。自我を暖め極楽の湯を認識させるのは魂である。日々の瞑想で、人体という浴槽に受け入れ可能なレベルの高い波動を入れて、徐々に暖め高め、魂を認識できるところまでもってゆくことが最初の基本である。ところが、世の中の平均的な人間のみならず、瞑想者でさえほとんどが魂すら認識していないのである。それは、20℃に20℃を入れているからである。無知な者は、15℃など、もっと低いものを入れている。動機が狂っているのである。瞑想するのは、入浴が冷えた人体を温めるのと同じで、より高位のものとの心地よい調和を味わうためである。この交わりが、低い波動や低い温度や悪習や悪の源を浄化する。自らを常に魂の高温で暖め生きる者は、冷えた兄弟姉妹にも、その温かさを分かち合うことができる。しかし、冷えた者同士では暖め合うことは不可能である。

瞑想は、意味を理解した上での高い波動との交じり合いであり、高い波動を低い波動に適用する過程であり、高い波動で自身という低い波動体を浄化する日々にかかせぬ入浴である。ならば、そのどこが修行だろうか。そのどこに努力の要素がありうるだろうか。風呂に入ることは楽しみではないのか。高い波動と交じり合うことも愉しみではないのか。霊的に心地よくなる日々の試みを続けることが、どうして億劫であろうか。睡眠すら犠牲にしてまで私を瞑想させてきたのは、瞑想が睡眠よりも遥かに優れた心地よい休息だったからである。瞑想を知ると、睡眠時間は減るだろう。惰眠の部分が多いからである。マインドが統御されていない夢のような状態は苦痛である。

瞑想は霊的入浴であり、心地よいものしか提供しない。そうでないならば動機が狂っており、間違った20℃瞑想をしているのである。私が「長年の瞑想が必要」と言うとき、間違って捉えないでもらいたい。だから前の記事だったか忘れたが「長年の至福」と言い換えるようにしたが、20℃で20℃を扱うならば努力瞑想に陥り、20℃が見せる個人的な理想や目的というマインドの影絵を扱っており、到達するはずもなく、20℃にはもっと高い、ほどよい熱湯が必要であることを知り、20℃という自我であれこれ瞑想する愚かさから脱却せねばならない。これさえ分かれば、極楽の湯にいつでも浸かることができるようになるであろう。

極楽とは良い表現だ。努力とは逆であることを教えている。もっとも自然な状態が極楽である。自然を不自然に変えるとき、つまり歪曲するとき、努力になり、それには必ず苦痛が伴う。神の意志を個人的な意志に置き換えるとき、大なり小なり苦痛を伴う破壊的な現象へと導く。努力する者がまだ瞑想中にいるようではいけない。この自我は、高温によって溶かされねばならない。暖かいものを受け入れる姿勢、知的な無抵抗、鋭敏な受動性、気づいている無関心、このような魂の態度が必要である。すると、瞑想は心地よいものである。霊的な自己破壊は、真の霊的自己を顕現させるがゆえ、ひじょうに心地よく、病みつきにならんばかりのものである。しばらく瞑想するならばこの意味が分かるだろう。一度でも極楽を味わったならば、それ以外は耐えられなくなるだろう。そのとき、あぁ、瞑想を続けて良かったと感じるだろう。素晴らしすぎて、感謝してもしきれないだろう。そうするうちに、感謝する者すら溶かされ、一体となるだろう。マインドが静められ、超越され、すべての既知が消えてなくなるだろう。目覚めた無になるだろう。その残った目覚めが真我である。

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