神に選り好みなし

内観。それは内感を発達させ、ついには観照が支配し、内なる神が自分になる。偽我は錯覚を乗り越え真我になる。私と会って話をしたい、瞑想の指導をしてもらいたいと仰る。長く人間に生きすぎて、長く偽りに支配されすぎて、教えられる者、教えを乞う者、霊的な利益を獲得せんと欲する者へと堕し、その弱さや弱気ゆえに、至高の己を忘れている。見える肉体や、意識という画面を通して見る映像世界や、特定の人間としての自分という想念に耽溺するあまり、神ではなく、誤解した神が自分になっている。私に会いたいと言う個人にそれを言わせている力の原初の生命と、私は同じ者である。肉体で会いたいと仰る個人の根源と、私は同一人物である。彼は私であり、私は彼である。現象面の肉体と肉体では会わない。断る。これらの錯覚を乗り越え、内観を通して内感に至り、感じる当のものへと熱中し、人ではなく、神に生きねばならない。想像もできない存在が、内なる小道の先に輝いておられる。彼が私である。どの人にとっても、彼が私である。質問者が何を私に求めようと、それを遥かに超えるものを実際に与えるのは彼である。内に自身で見いだす神以外は、誰も、何も、全く信用するに値しない。

人間に生きた時間が長かっただけである。抜け出すのに少しばかり時間がかかるだけである。瞑想を通し、徐々に高位の波動に慣れ、奥深くへと悦楽し、唯一なる本物を思い出す時間が必要である。可能なかぎり、本物の自分に生きることで、偽の自分を忘れねばならない。内観と内感は、直観への道である。あなたが誰であれ、瞑想すればもうその者ではない。無知な外的個人が頼れるものは、「私は知っている」という内的感覚である。人々は言う、私は知らないと。彼らは、自分が死ぬ定めにある肉体人間を自分と信じて譲らない人たちである。焦点を合わせているところが違う。静かになり、完全にこの瞬間に見つめ合うことのできる真我がいま我々を見ていることを知り、このことを信じなければならない。内にのみ、信ずるに値する方がおられる。外的な存在は誰であれ無視してよく、この文章も含め彼らの話もどうでもよく、知るべきこと、知るべき存在は、あなたを通してのみ内におられる。

これを知って困るのがあなたである。だから、私には無理だと答える。質問する者でいようとしている。真我は、現実になるより、理想や求める対象であり続けることを欲している。なぜなら、知ったらあなたは終わるからである。このような抵抗はやめて、黙ってもらいたい。静けさが神を開示する。あなたが瞑想に求めたものは与えられない。あなたが想像しなかった者があなたを奪うのである。これは当初のあなたの望んだことではなかった。あなたは人間として瞑想を始めたが、事はあまりにも壮大であり、神があなたを愛で殺すということは知らなかった。あなた(形態)は利用され、活用され、役目を果たし終えたなら、それが魂であれ、死なねばならないことは聞いていなかった。瞑想の罠にあなたという偽我はひっかかり、この罠が慈悲であり意義深きことであることをやがて厳かに知り、罠にかかった痛みを愛と知り、一なる生命という罠から逃れるのではなく直視し、神の罠に没し、無知の闇を深くまさぐり、死の先の深淵ではなく、すでにして我生命なり、我神なり、我永遠なりの完全至福に喜んで身投げせねばならない。内に死ぬことは喜びである。肉の意識で死ぬことは教訓になるだけの失敗である。肉体は我々ではない。肉体と肉体で会う必要は全くない。なにが命なのか。この命は不可分である。

絶対に、自分でしか見つけられない。絶対に、外に頼ってはならない。人は恩寵を求めるが、それは外に頼る弱き者には微弱にしか訪れず、内を見つめ強き者を知るならば即時に強烈な恩寵が現実になる。この時代に人間の中に生きていることは幸いである。瞑想という概念がある。あとは自信のない自分を無視できるかどうかである。吸う息吐く息で書いた通り、空気は選り好みしない。この人には入らないとは言わない。特別な人、発達した人にしか入らないとは言わない。人は、間違ったものを自身と同一化しているため、生命そのものが分からないのである。記憶喪失に陥り、催眠状態か昏睡状態に我を彷徨わせている。瞑想で本物を求めるなら、絶対に彼は導きに来るだろう。選り好みなく、彼は来るだろう。みな、自分には無理だと思っている。時間がかかると思ったり、今生ではせいぜいこれぐらいだろうと制限をかけたり、恐れ続けている。いかなる情緒的想念も無視して、朽ちる肉体に生きず、それに宿っている生命を真我と知り、静けさの中で、私は本当は知っているということを知り、頭の知識を放棄し、空白の先の叡智が降り、導き出し、「ああ、確かに知っている」と言わせる内感に徐々に至り、自ら、彼によって至らねばならない。偽我は、真我によって真我に戻らねばならない。この出会いだけが重要であり、他はすべて価値がない。こんなにも目の前のものが見えない八十億の中で、到達するのが時代に何人かであると言うならば、それは、何人かしか信じ続けなかったというだけである。瞑想を続ければ、信念は確信になり、確信はすでに知っていることになる。くれぐれも、教えを乞う者であってはならない。真理は内、あとはこれを認めたら困る自我に打ち勝てるか否かである。

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