真のヒーラーつまり治療家とは神である。ちょうど傷を負った箇所が治ったとき、瘢痕組織として再生部位の強靭化が見られるように、あらゆる破壊と呼ばれるものに対してもまた私は治療や救済の観点から見て喜ぶ。だから単に「破壊」とは言いたくない。治療や愛と言った方が的を射ているように見える。
前の記事だったか、腰を悪くした女の人を治療した話をしたが、あの後も続き、何日かに分けて行った。もはや、治ったことに驚きもしないのである。私を完全にヒーラーだと思っている。笑ってしまうのだが、私とは誰か。この男の肉体を私だと思っているようであるが、この男自体は無力である。しかし、平伏すばかりの瞑想生活を通して魂によって治療を受け、つまり古い私は破壊され、より強靭な器として精製され、神の力の伝導体として活用されているにすぎない。神がヒーラーである。愛の治療家である。そして、至るところに神と愛が見え、神が治療しよう、愛の主が助けようとしておられるのを私は見る。それには怪我の損傷のように、意志を通じて一時的な破壊を伴うかもしれないが、より強くより良いものとして復活するためであることを知らねばならない。だから悪いことが起きたとしても、より良くなるためであることを知ってもらいたい。
瞑想で人は自身の騒音に悩む。発想を変えて、騒音自体を見たらどうだろうか。もしくは、騒音の源――想念が出てくる場所、想念が生まれる箇所を見てはどうだろうか。私ならば自身の騒音に悩んだり苛ついたりする前に、その源自体をよく見て、ただ働きかけるであろう。つまり注目という意識を通して対象に治療のエネルギーを照射するであろう。そうすることで源を破壊するであろう。治療するであろう。我々は形態や形態の質料を扱っているのである。対象をよく見て知る者にとって、どうして治療できないことがあるであろうか。
欲求も同じことだ。たとえば、新作のゲームがあるとして、どうしても仕事や学校が終わってからやりたいとしよう。私ならその欲求自体を見るのである。欲求の形態である。どのような欲望であれ、いのちを吹き込まれた形態である。それは低位の質料で組み立てられている。私はそれ自体を興味深く見る。なぜならそれ自体がそれが何であるかを教えてくれるからである。すると存在していないことを次の瞬間には知るであろう。私にとって、あらゆる形態は非実在である。手品のようなまやかしである。肉眼やマインドにとってだけ存在しているまぼろしである。
このような話がどれだけ我々の日常生活に素晴らしく応用でき、ほとんど劇的に豊かにしうるかを知ってもらいたい。何であれ神が直すし治す。行うのは神である。行う力もまた神の力である。私という形態はその媒体であり、通った後の力が神通力である。ちょうど、対象となる人や形態や質料に適合するようにステップダウンされ、対象に最もふさわしいかたちで流出される神の愛エネルギーである。
しかし、あの腰を痛めた女性もそうだが、神通力が使えるのは特別な修行をした者だけだと思っている。また、そのような修行には途方もない時間がかかるであろうから、自分には無理だと思っている。可哀想に。おのれが神の子であることをまだ知らないのである。知りたくないと言った方が適切であろう。はっきり言うが、腰の怪我だけでなく、疲れている時の家事、疲れ自体、疲れているのに短くしなければいけない睡眠、働かねばならない実状、なんであれ苦痛ではないのだろうか。おそらく、耐えられる程度の苦痛なのか、そういうものだと勘違いしているのである。「極楽」という漢字をよく読みたまえ。神の世界にいかなる苦痛もありはしない。神の臨在とともに在るならば、そして神の媒体であるならば、流れ来る力を人類のために使用できる権利が与えられる。おのれのために使用してもいいのだ。病気ならばその病気に、怪我ならばその怪我に。あるいは未病の段階ならば、病気を作ろうとしている動き自体に。あるいは苦しんでいる兄弟姉妹に。こうして神の力が常に分かち合われるべきである。しかし、人類はまだこの知識を持たない。
苦しい人生をあえて送る必要はないと神は言う。神の力でなく、自分の力で生きようともがくがゆえ、辛くきついのである。瞑想を習得したまえ。神の大愛がなだれ込んで来るであろう。そして喜びに満ち溢れるであろう。神は常に我々とともに在ることを知るであろう。そしてマインドを統御できるようになるならば、我々と神とのあいだにいかなる障壁もないことを知るであろう。我人間にあらずして我神なり。我形態にあらずして我いのちなり。まずはおのれを救済してもらいたい。ときどき、672夜を呼んでいる人の波動を見ることがある。痛ましいほどに苦しんでいる人もいる。私もその道を通ったことがあるゆえ知っているが、もう少しである。人に頼る気持ちを捨てて、完全におのれに自存する神の力を信じ、また神の知恵を信じ、その媒体として全知全能の部分となれることを知り、特別な段階の者だけにできるものではなく、この自分にもできるという真実を、この瞑想という極意を習得することで実証してもらいたい。そして実証したり確認したりした後は、それを人類の兄弟姉妹に応用し、彼ら彼女たちに人生ではなく神生を教えてもらいたい。この生き方、この在り方の、なんと美しきことか。人類は互いに癒し合うだろう。互いに愛し合うだろう。そして、すべてが我において一体であることを完全に理解するであろう。すべては我である。ならば、我が内にあって、助けられぬものなどあろうはずもないではないか。
