私は見られている

或る子供が親に叱られていたが、自分は悪くない、絶対に悪い事はしていない、それは神様だけが知っており、あなただけがそれを知らないと言い、憤怒の涙を浮かべて父親を睨みつけていた。その後、父親は声を荒げ、子供にビンタを打った。

逆に、子供の父親が、自身のすべての行為、言葉遣い、思ったり考えたりするその内容を、神に見られており、いずれも筒抜けであり、天網恢恢疎にして漏らさずという意味に深く通じていたならば、なかば頭ごなし、子供に平手を飛ばし得ただろうか。打つ前に考え直そうとしただろう。もう少し子供の話を聞いてみようと踏みとどまっただろうと思う。

神に見られている、という表現は幼稚かもしれないが、内容自体は三界的に事実である。言い換えれば、法則は、法則違反を見逃さない。法則は、法則からの逸脱を常に知っている。逸脱の後、カルマが始動する。逸脱から学び、失敗を通じて苦痛を刈り取り、一挙手一投足、「不本意ながらも」法則との一致へ己れを磨き上げ、ひいては逸脱できなくなり、逸脱より調和を愛するようになり、こうして法則自体に帰った者が覚者であり、カルマからの解放であり、解脱である。

神に見られている。もっと言えば、神がここにおられる。なぜなら臨在もしくは遍在ですらない神は、おそらく神ではないからである。この種の結論に弟子が到達したとしよう。彼は急速に成長する。わたしは常に神と共に在り、神によって生きており、動いており、存在しているという自我の謙虚さに至ったとしよう。彼はアストラル的ではなくメンタル的になり、やがて魂自体と接触するようになるだろう。魂が教えるのは、エネルギーとフォースの世界を通しての法則であり、愛を通しての意志であり、調和と平和の意義であり、その美と完全性である。これにより、弟子は秘教的に黙る。

全ての大人が、無邪気な子供に習い、「見られている」ことについて熟考し、臨在を感じるようになるならば、世界は平和に支配されるだろう。人類は急速に進歩し、人々のうちから苦しみは消え去るだろう。喜びが取って代わるだろう。計画は促進され、目的へ至る途上の邪悪な歴史は起こらず、いずれも未遂に終わるだろう。魂の賛美歌が地上に鳴り響くだろう。

旅先の光景より

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