自然の霊

静かな森の中の木々に囲まれて、幾千幾万という眼がわたしを無表情に見つめているように感じて、恐ろしくなり、この土地には何かしら意味さだかならぬ曰くがあり、立ち入ってはならぬ場所、禁じられた存在の深淵めいた視界の内部に意図せず入り込んだ気がして、買おうと思っていたはずの土地に懐疑が芽生え、そこで感じた奇妙な不安、見られていることの恐怖の意味を突き止めたくて、その土地を見てほしい、恐ろしくも神秘なその何かを確認してほしいと友人が言うものだから、それほど遠くもないため彼にわたしは同行し、彼が買おうとしている土地を数日前に見てきた。わたしの基準では、波動的にA+かSであり、申し分がないどころか、最上と形容して然るべき空間であることを認めずにはいなかった。

自然霊、森の精霊、木々に宿りし霊……何と呼ぼうがいっこうに構わないが、秘教徒であればデーヴァと呼ぶだろう。エーテル界のデーヴァは、物質界でわれわれが目にする存在の建設者であり、その外的な過程を統御する霊もしくは生命であり、存在に組み込まれている精霊であり、キリスト教徒が天使と呼ぶものである。人間は、第五原理つまりマナスの管理者だが、現在、一般的に影響を受けているフォースが物質界とアストラル界のフォースに限られるため、まだ知的ではなく、メンタル偏極しておらず、魂の影響下に入るまではデーヴァと協調して働くことの意味と意義に関しては全く無知である。そのため、自然を平気で破壊したり蹂躙したりしている。ありとあらゆる被造物を人間は破壊するが、この無知を通して学ぶように定められているのもまた事実である。これに関しては以下の文章を思い出す。

デーヴァは人類が感じるような苦悩を味わうことはない。彼らの振動率は安定しているが、法則と一致している。彼らは、建設の働きに専心し、建設した形態内に組み込まれることを通して学ぶ。彼らは、形態を建設し、仕事を達成することへの感謝と喜びを通して成長する。デーヴァが建設し、人間が破壊する。形態を粉砕することによって、人間は不満を通して学ぶ。このようにして、偉大なる建設者の仕事に不本意ながらも同意するようになる。苦悩とは、人間をロゴスの足元へと引き上げる、物質を通しての上昇のもがきである。

アリス・ベイリー「ホワイトマジック 下」 p.248

簡単に言えば、人間に苦悩があるとき、それはデーヴァと協調して働くことができていないことを意味する。つまり法則に一致していないことを意味する。デーヴァは法則と一致しているため感謝や喜びに精通しているが、人間はこの逆のフォースに隷従しているため、不満や苦痛に圧倒されており、それが意味するものを学んでいる。そして学んだとき、法則と一致することで人間の意識とマインドは強烈な喜びを知覚し、一体性に基づく愛に到達し、やがて存在に由来する至福に包まれて、真の意味の感謝を知ることになる。

この話を友人は理解しなかった。それで夜、もっと涼しく静かな時間に再びその土地へ向かい、簡易的な折りたたみ椅子に座って、われわれは瞑想に入った。十五分も経たぬうち、友人は「ああ!」と言い、それから号泣した。彼は接触し、それを知覚したが、耐えられずにアストラル的に反応してしまった。「ああ!」の後、いちどきに理解されたものを表現する言葉がなく、その美しさ、素晴らしさ、慈悲の眼差しを理解して、「こういうことだったのか」という認識に圧倒されて、あらゆる重荷から解放されて、泣かずにはいられなかったのである。これと逆の反応をした人を見たことがある。つまり、爆笑とは言わないまでも、ひどく笑い続ける、という反応である。これはより進歩した反応である。「こんな簡単なことだったのか」という笑いである。喜びに到達し、何もかもがシンプルになり、生が嬉しくて仕方ないのである。号泣は純粋にアストラル的な反応であり、笑いは魂の喜びに由来するものである。単に涙が流れる場合があり、これはより進歩した反応の一部であるが、涙が流れたと主張する瞑想者のほとんどがアストラル的つまり情緒的ないしは感傷的な涙であり、融合中の涙ではない。

人間は、魂と接触し、すべてのものの魂と融合し、すべてが私であることを理解し、個人意識や感覚知覚から撤退したときのみ、完全にすべての苦痛から解放されるが、心理的な苦悩に関してはこの遥か以前の段階で達成される。つまり、メンタル体を統御していなくてもアストラル体を統御することで達成される。ただしこの場合、大怪我の痛みによる苦痛や、大病の具合の悪さによる苦痛に対しては無力である。多くの瞑想者の障害は、メンタル体ではなくアストラル体である。日常から相反する対をなすものを統御しその中間に留まっておらず、感情体・情緒体に動かされている。正しく生き、瞑想を続け、魂のパワーによってこれらのエレメンタルは統御されねばならない。これができるようになるとき、日常生活では困難が生じるかもしれない。なぜなら、感情を表現することが難しくなるからである。全く別人になるだろう。このとき、死人の心電図のように、一切波立たない、上にも下にも揺れることのない、アストラル的な不動、つまり周囲のアストラル・オーラとの波動の分離と孤立が達成されているのである。このときのみ、魂に熱心に従うことが可能になるが、日常の人間生活におけるどのような幸福や快楽や喜びや、あるいはその反対の悲哀や苦悩といったものにも反応できなくなる。それらは去ったのである。もはや弟子の諸体は魂が支配しつつあり、アストラル・フォースは完全に無力化され、この意味で人間らしくなくなってしまう。しかしそれで良いのである。なぜなら、彼は内なる喜びと愛に至るからである。

友人は、森の中の潤沢な精霊つまりデーヴァのオーラの力を借りて、いわば天然のサットサンによって、この内なる意識を知覚し、号泣し、しばらくその余韻を感じ続けた。感じられなくなったあとも、自然に向かって頭を下げていた。彼の瞑想歴はそれなりだが、よもやこれほどとは思わなかったと興奮していた。ここまで凄いのかと驚愕していた。こういう反応すら拒否しなければならないのだが、しばらく黙って聞いていた。彼は、初めて垣間見た意識状態に恍惚となった。すべてを捨ててでも瞑想にのみ専心したいという気になっていた。もう二度と間違った意識に戻りたくないと感じていた。彼の意欲はどのくらい続くだろうか。意識は記憶できない。この意識に入れない日々が続けば、やがて忘れられるだろう。「凄かった」という感想は覚えていられるが、意識は覚えていることができない。自我のあらゆる反応を無視して、魂に滅私奉公してもらいたい。どっちが真の自分であるか間違えないことである。彼は、見つけたくても見つけられないような土地に巡り合ったことに感謝し、その土地の精霊方に感謝の気持ちを忘れず、協調して正しさに生きてもらいたい。正しさとは法則のことである。瞑想は波動を通して法則と一致させることである。この法則が神である。これを知るまで、引用の言葉にあるように、「不本意ながらも同意するようになる」ということの意味を学ぶだろう。言い換えれば、フォースがエネルギーに従うようになり、自我が魂におのれを明け渡すという意味である。

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