瞑想と意志

エゴ(魂)の意志がその反映であり、個人の自我意志がその歪曲であるモナドの意志がアンターカラナを経由して徐々に物質界にいる人間に直接伝えられる。……個人の意志とエゴの意志は、私たちがその中で生き、動き、存在する方の目的であるモナドの意志に同化される。これが真の燃焼が起こる領域である。

アリス・ベイリー「光線とイニシエーション 上 」p.52

より正確な翻訳を試みるとき、瞑想は集中ではなく意志である。個人意識は、人間の自由意志しか知らない。この場合、認識できるのはフォース面のみであり、個人の意志は集中しようという努力として歪曲される。しかし瞑想する魂つまり(真の意味での)エゴの意識は、アートマつまり霊的意志の存在に気がつく。秘教徒は物質界からメンタル界、そこからアートマ、最後にモナドつまり霊へと働くと言われるが、これは瞑想する魂の経路を描写したシンプルかつ正確な要約であり、大いなるヒントでもあるため、以下に聖者の経路と併せてまとめる。

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秘教徒ヘッド・センターメンタル体アートマ(霊的意志)モナド
パーソナリティーの第一様相魂の第一様相意志
聖者ハート・センターアストラル体ブッディ(霊的愛)モナド
パーソナリティーの第二様相魂の第二様相真我

個人の自由意志は苦痛である。換言すると、統御されていないマインドと、その結果である偽我という想念との同一化は苦痛である。ここで苦痛が調べられるとき、なにが苦痛ではないか、つまり苦痛の対極にある方角が啓示され、その領域だけが純粋に非苦痛であることを発見する。そして瞑想者はこの方角が、外の想念としての私ではなく、その「反対方向」へと向かう強烈な意志のエネルギーであり、この霊的意志つまりアートマからモナドへ導かれることに気がつく。したがって為されるべきことは、個人の意志と魂の意志を、その本質であるモナドの意志へと同化させることであることが明らかにされる。その後、モナドの意志が神つまり惑星ロゴスの意志であり目的であることを発見する。こうして人間は神の意志の純粋な経路を志向し、そうなることだけを望むようになる。

第三イニシエーションの後、イニシエートは意識には全く関わらず、自らの個人の意志と神聖な意志との融合に関与するようになるという事実を、あなた方は把握してきたであろうか。……訓練を受けているイニシエートの姿勢は正しい霊的な動機――神性の意志様相つまりモナドの知的な遂行という動機――という姿勢になるべきである。そのためには、パーソナリティーの自我意志を魂の犠牲的な意志に没入させることが必要である。それを成し遂げたとき、それは聖なる意志の啓示につながるであろう。この意志について、イニシエートではない人はどのような概念も持っていない。

光線とイニシエーション上 p.55

仏陀はシッダールタを通して知恵のエネルギーを人類に衝撃として与え、キリストは同じくイエスを通して愛というエネルギーの解放に関与した。これらは共に神性の第二様相の啓示である。次の時代の教師は、明らかに意志つまり第一様相を教えることになるだろう。言い換えると、個人は八正道に代表される自我の修正を知的に歩むことで徐々に魂の波長と一致するようになり、やがて性格の構築や改善の高位の努力である瞑想へと導かれ、魂としての個人つまりエゴは愛と喜びに到達し、最後にエゴはそれすら通り越して根本であるモナドの意志に到達し、自我と真我の融合における意識の様相と言うより、それが啓示する霊的意志との一致が目標になる。したがって現在の人類が神を愛と結びつけるのならば、未来の人類は神を意志と結びつけるだろう。

魂との融合を深め、低位マインドを統御する瞑想者は、物質界からマインドを超えて、次にアートマつまり霊的トリアッドの最高様相へと自らを貫通させねばならない。ここまで導くのは魂であり意識だが、これ以降は霊つまりモナドの意志がトリアッドを通して導き、教えるようになるだろう。

人間が意識を物質界、アストラル界、メンタル界それぞれの低位四亜界から、高位三亜界へと移行させるイニシエーションがある。これがメンタル界で行われたとき、人は厳密な意味で、弟子、イニシエート、アデプトとして認められる。それ以降、彼はメンタル界の高位三亜界それぞれを踏み台にして、人間として顕現する三界を完全に抜け出し、トリアッドへと進んでいくよう努力することになる。

イニシエーション p.242

パーソナリティーと魂との融合を示すものが第三イニシエーションと呼ばれるものであり、その後の目標は魂ではなくトリアッドである。トリアッドは、モナドと脳意識との仲介者として働くアートマ・ブッディ・マナスで知られる三つ組であり、それは肉体・アストラル体・メンタル体という人間の三つ組の高位の様相である。肉体はマナス、アストラル体はブッディ、メンタル体はアートマにそれぞれ対応し、したがって瞑想しマインドを統御する者は、必然的にアートマつまり霊的意志に関与することになる。われわれが誤って集中と呼ぶものを調査するならば、そのエネルギーの源がアートマであることを見出すだろう。このとき弟子は、愛つまり第二様相ではなく、意志や力の第一様相を完全に認識することになる。これが瞑想の最終段階へと導くのである。

集中には個人の要素がある。それはフォース的である。しかし集中は、その背後の意志をやがて啓示する。「魂の意志がその反映であり、個人の自我意志がその歪曲であるモナドの意志」が、集中に取って代わられなければならない。われわれが伝えたいのは神性の意志様相である。なぜなら、多くの瞑想者が集中しようとしているからである。それは意志の歪曲でしかない。そのような努力や自我意志に騙されずに、それらマインドの領域を透過して、われわれを真我へと引き戻す強烈な内へ向かわせる意志が存在することを見出さねばならない。例えば、「私」と言うとき、そこに苦痛を感じることが可能だろうか。瞑想で確認してもらいたい。「外の私」と同一化するとき、そこに強烈な異議を唱える力が苦痛を伴いありはしないだろうか。その力つまり意志は、外の私とは反対方向にむかっており、その反対方向に一致しないかぎり永久に霊的苦痛は払拭されず、真我でありえないことが理解されるだろう。これが分かるとき、瞑想は集中ではなく、まさに意志であることが発見されると思うのである。それは、意識様相(第二様相)への注目ではなく、意志様相(第一様相)への注目であり、この認識がわれわれを強烈な力で真我へと引き戻すのである。瞑想は意志である。神は意志である。いのちは意志である。そして意志は破壊である。不断の確固とした揺るぎない意志が、われわれを閉じ込める形態を破壊するのである。肉体という第三様相から、魂という第二様相を経由して、霊つまりモナドである第一様相へと貫通させるのは、まさに第一様相そのものである意志である。

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