あらゆるものなしに私は存在する

あらゆるものと関係がないとは、あらゆるものなしに私は存在するという意味である。自我は、あらゆるものを通して経験を積み、経験から間違いや正しさの意味を知り、それらの概念という想念を通して正しい波長、本来の自然な波長に意識を一致させるようになり、そこで想念から自由になり、あらゆるものは想念であり、そのあらゆるものと私は関係なく存在しており、あらゆるものを私は必要とせずに存在しており、自身がすでにして完全であり、実現されている真我であることを知る。こうして、存在すると思われてきたあらゆるものから孤立するとき、強烈な沈黙が誕生し、われわれは沈黙と無に没し去る。この目覚めたままの死が啓示するものが命であり、命としての我である。

実在は前提を必要としていない。何かによって存在するものは非実在である。実在は非実在と交わらないが、非実在は実在のあらわれである。結果は原因に依存しているが、原因は結果と関係がなく、それらの多様なあらわれによらずして常に存在する神秘な生命である。われわれは、あらゆるものを必要とすることのない命であり、命によって養われている現象ではない。現象の中におり、世界の中に存在すると考える個人の意識は、想念に閉じ込められた一時的な幻覚であり、これらの幻覚や想念がわれわれの命としての自覚を閉じ込めておくことができなくなったとき、自覚と認識は想念を打開し、最初からそれであったものへと意識を連れ帰る。

命という宝珠を覆っていたのは想念であり、また想念の結果である形態である。人間は肉体という形態や外皮という想念に閉じ込められており、人間がやがて瞑想するようになるとき、人間つまり魂は想念から脱出し、偽我と真我を識別できるようになるだろう。これを理解するためには、ただ、想念からの自由が訪れなければならない。あらゆる人間つまり想念は、別の何かつまり別の想念になろうとし、目標や理想といった想念へと向かい続けているが、この無意味な循環がぴたりと止まり、焦点を、見ているイメージつまり想念の背後の原因へと固定させる力がやがて訪れなければならない。したがって、何かに成るのではなく、何かが訪れるのである。人間という個人の意識の弱さは、それを超越した強さによってやがて犠牲になる。無力は力によって踏みつけられる。無知は知恵によって追い払われる。こうして魂は想念に騙されなくなり、見るべき焦点を外皮からその原因である生命つまり霊へと固定させるようになる。これが瞑想であり集中である。そして集中が持続され、もはや何ものにも邪魔されることなく定まった状態が観照つまり自然である。

瞑想は、その終盤つまり想念やマインドが無関係化されるまでは、必然的に想念、そして想念に由来する情緒に惑わされるだろう。人間の意識に固定されながら、われわれは試行錯誤で瞑想の道を歩むが、いずれどのような試行錯誤も終わる。つまり、試行錯誤をさせる力は、より大いなる力によって殺害される。あらゆる多様なフォースは唯一なるエネルギーにおとなしく従い、やがて変性され、エネルギーとしてエネルギーに吸収される。これが起きたあと、起きる前のすべてのイリュージョン性が認識されるようになる。こうして、錯覚や幻惑は意識を閉じ込める力を喪失し、意識は真我である霊つまり命に目覚める。この自覚には、たとえようもない至福が伴い、この認識が途切れることのないまでになるまでに、さらにしばらく「時間」がかかるだろう。

なぜ、それまで人は見えないのだろうか。違うものを見ているからである。関係ないものに夢中になっているからである。しかし、それら錯覚への衝動もまた法則内にあり、錯覚の騒音が打ち破られる沈黙が訪れることもまた法則内にある。何が言いたいのか。人間の自由意志は自らの意図で何事も引き起こすことができないということである。想念と同一化させられている個人意識は、常に自分で何かの理想に到達しようともがいている。自ら描いた架空のイメージを信仰し、想念へと向かい続けている。この無意味さが知られねばならない。そして、自我意識は、つねに引きこす主体ではなく、引き起こされる客体であることを覚えておき、抵抗に抵抗を重ねるという努力や重荷から自由にならねばならない。われわれ、つまり意識ができることは、ただ気づいていることだけである。気づいていることは想念ではない。なぜなら、意識は想念ではないからである。想念は、意識に訪れる外来者であり、意識は想念を必要としない。意識に想念が訪れ、これら異邦人との親交を結ぶときのみ、自我や世界がはじまり、われわれは危険や恐怖に陥る。意識が思考と関わることなく自身で在るとき、一者つまり原因が訪れうる環境が整う。これを自我は引き起こすことができないが、真我の方からやってくる。想念と断交するとき、意識は非実在ではなく実在を認識するのである。

「そういう話が事実であるとして私に起こるだろうか」と想念は囁いてくるだろう。無視すべきである。同じく、どのような期待や希望も無視すべきである。それらは自我に属しており、われわれは想念とは関係がない。想念なしに存在している者であることを、想念によって忘れさせられることを拒否しなければならない。瞑想そして瞑想生活を続けるならば、内なる認識が訪れないことはありえない。ならば、なぜほとんどの瞑想者にそれが訪れないのか。それは、訪れないでも生きていられるからだろう。しかし、やがて外の個人経験はすべて苦痛になるだろう。自我意識のままなら、断固として死なねばならないと考えるようにさえなるだろう。なぜなら、耐えられないからである。真我以外はすべて苦痛である。なぜなら、エネルギーとフォースもしくはフォースとフォースがずっと衝突状態にあるからである。意識は長らくこの苦痛性を認識できないため、個人として生きる意識に耐えられる。人生に幸福が訪れるとそれを喜ぶこともできる。瞑想を続けるなら、なにも喜べなくなるだろう。真我以外にどこにも喜びがないことを知るだろう。真我以外には、決してなにもおめでたくはない。一切の不調和にわれわれは耐えられない。一切の不自然をわれわれは拒否せざるをえない。真剣さとは、努力ではなく、このような認識の様相であり、この不断の意志が、閉じ込める形態を結局は破壊するのである。

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