謙虚さ

呼吸困難に陥った人は苦しみもがく。ここで彼を元の状態に戻してやれるならどうだろうか。必死で空気を吸い込み、そして吐く。まさに息ができるということに、彼は強烈に感謝するだろう。しかし、彼は生まれてこの方、息や呼吸を当たり前だとみなしてきた。吸っては吐くという命の恵みに生かされながら、それを忘れ、呼吸を当然のものとし、いわば傲慢に陥っていたことに気がつく。神秘な生命の力が、自然な呼吸を与え、われわれを生かしてくれていたことを思い起こす。彼の力なくして、われわれは息すらできない。一秒たりとも生きれない。

傲慢さとは、真我や源の忘却により、外の錯覚を我にして力であると思いなすときの危険な兆候である。生命なくして、外の人間は即時に死亡である。瞑想は人に力を与える。また、一般の人には想像もできない技を習得させる。それゆえ、傲慢の誘惑が訪れる。自分の力だと思わせるのである。われわれ自体は徹底して無力である。力は生命のものである。呼吸のように、それなくしては地獄であるものを与えてくれている生命にわれわれは感謝し、目を向け、何が本物であるのか、何が絶対的な存在であり、唯一ひれ伏すに値する存在であるのかを再確認し、謙虚さを取り戻し、頭を垂れねばならない。彼なくしては誰もが無である。


瞑想をはじめて、その効果に大変喜び、ひそかに有頂天になっている者がいた。彼女はさらなる高みを目指し、これまでの悪習を一切やめて、身体を徹底してきれいな状態に戻したいと思うようになった。さしあたり、毎日飲んでいたエナジードリンクをやめ、食事も一食にして、野菜と果物中心のものに変えるようになった。

エナジードリンクだけでも、悪い物質が体内から抜けるのに、この人の場合は何日もかかった。十代にしばらく銀座のクラブで働き、酒が飲めない代わりにエナジードリンクで気を張っていた時分に習慣となり、したがって何年も飲みつづけてきたと言う。やっと悪い物質が抜けて毒抜きされたとき、彼女はとても気分が良いと言った。意識がクリアになり、体も軽く感じられると言った。数時間後、何かがおかしいと言ってきた。瞑想もまったくできなくなったと言うのである。さらにしばらくすると、言葉遣いが乱暴になり、彼女はあからさまに苛立ちを見せはじめた。彼女つまり自我は魂によって統御され出していたが、もう完全に自我に戻って、肉体-エーテルそしてカーマ-マナス、いずれものフォースに圧倒されて、おのがうちに隠れていた悪いものが想念や情緒の荒波で彼女を覆い、もう誰も止められないというところまで暴走が駆け巡った。彼女はわたしに暴言を吐いたが、それを後悔しつつ、まるきり無力である自分に二日ばかり苦しんだ。せっかく身体から毒を抜いたのに、なぜ堕落が訪れ、瞑想すらできなくなったのか、まったく理解できなかった。

とうとう、彼女は助けてほしいと言ってきた。それで私は彼女にコーヒーを差し出した。彼女は困惑し、こんなものは飲まないと声を荒げたが、いいから飲むように言った。彼女はしぶしぶ飲み、それから数分後、どうも治ったようですと言った。つまり、カフェイン中毒だったのである。


エネルギーは、それが衝撃を与える接触するフォースよりも精妙で強力である。フォースは強さにおいては劣るが、固定されている。……自由なエネルギーは、固定された接点という観点から見ると、すでにそこに固定されているエネルギーよりも(一つの限定された領域内においては)いくつかの点でその効力において劣る。それは本質的にはより強力であるが、効力はない。このことについて熟考しなさい。

アリス・ベイリー「秘教治療 下」 p.241

彼女は、瞑想において才能があった。他の人が何年かかってもできないことを、始めて間もなくしてやってのけた。しかし、エナジードリンクを飲み続けていることで分かるように、まだ乱れがあることに気づいておらず、瞑想さえできれば他はどうでもいいという態度が日常にあった。彼女は、魂の能力を、自分の能力であると錯覚したのである。そして、自分は瞑想ができると考えた。ここで、彼女の魂は学びを与えるために、浄化に伴う苦痛を与えた。彼女のカフェイン等に対する習慣は、フォースの点で「固定」されており、それは彼女の接触度合いにおいて、魂のエネルギーを凌駕するものであり、彼女は瞑想できなくなることで、自身の無力を教えられた。コーヒーを飲んだあと――面白い現象だが――彼女は納得のいく瞑想にやっと入った。そして、「私は傲慢になっており、謙虚であることを教えられました」と言ったのである。なぜなら、瞑想がこれほどかと言うほど温かく、また慈悲深く、彼女をふたたび迎え入れてくれたからである。


似たような経験がある。かつて大病を患い肉体が死にかけたとき、いつもの意識に入れなくなり、ひたすら苦痛や痛みに打ちのめされた。病院には行かなかった。おのれで治せると信じていた。しかし無理だった。「血を吐き、唇がひどくひきつれ、歯と歯齦がむきだしになり、まるで別人のような邪悪な表情」で、強烈な痛みにとうとう耐えきれず、全く水すら飲んでいなかったため、「一杯だけ水を飲ませてほしい」と、年長のイニシエートにテレパシーで頼んだ。次の瞬間に痛みは消えた。ゴクゴクと水を飲んだ。翌々日には病いすら全快した。頼ったのは後にも先にもこのときだけだが、融合がいかに不完全であるかを教えられた。「おまえじしんは無力である」と言われ、徹底的に謙虚であることを教えられた。生命、二次的には魂の力なくして、われわれは全く無力であることを暗記しておかねばならない。そして、呼吸ができるように、瞑想ができるということに、感謝の気持ちがなくてはならない。われわれという無能そして無力に、力や美しさや完全性を教える源に、今日も深く頭を垂れ、瞑想に入ってゆきたいと思うものである。

目次