不良と更生

高校生のいとこが不登校になったあげく、親に手を出すほど不良になったという。不良とは、良くないと書く。これまで、医者にならせるべく必死に子供を育ててきた親が、まさか殴られ血を流し、大声で殺すぞと言われようとは思いもしなかったという。もはや親と子という関係に戻ることすらできない。わが子がどうなるのか、そして私の人生はこれからどうなるのかと、母親は現実におびえ慄いている。

良くないことを子に押しつけてきた結果であることを親は認識しうるだろうか。この成績では医学部に受かりそうにないと分かったとき、親は絶望したという。「その程度」であったことが悲しかったという。成績が悪くなりゆく息子、反抗的になりゆく息子、言うことを聞いてきた息子が、家庭の使命という重荷に耐えきれず、反旗を翻し、積み上げてきた何もかもを放棄しようとしている。このどこが悲劇なのだろうか。実際には言わなかったが、おめでとうと言いたかった。互いに、良くないことや良くない関係から離れられるからである。そして、何が良いことなのかを考えるきっかけになりうるからである。

この怒れるいとこをわが家にしばらく住まわせ、心の治療をすることにした。といっても、二人でゲームをしたり、犬の散歩をしたり、この者ができなかったこと、ありふれた静かで平和な暮らしをしただけである。わたしが怖い存在ではなく、自分の味方であることに安心しはじめたとき、どこか遠くへ行きたいと言った。それで、距離は遠くないが、精神的な距離を重んじて、ひじょうに昔からある修善寺の旅館に連れていった。この旅館の特筆すべきところは、静けさである。何人も宿泊者がいるにもかかわらず、いつも人気がしない。立派な佇まいをした能楽堂があり、たくさんの鯉が泳ぐ池があり、良い空気、良い日光を浴びながら、時間を忘れて静けさにくつろぐこともできれば、鯉に餌をやる楽しさにわれを忘れることもできる。ここでは何かしてもいいが、何もしないという心地よさを人は求めて選択する。

この稀なばかりの静けさに感銘をうけて、静けさとはいったい何だろうかと、ただ静かで在ること、静けさの向こうのさらなる静けさ、美しさ、偉大さ、心地よさ、言葉にならない領域へと歩みを進めようとする者、……このような恵まれた生涯を送れる者は少ない。この世では、誰もが認められたいと願っている。それは自分が無力や無能であることを恐れているからである。承認欲求ではなく否認恐怖である。本当に静かになるならば、あらゆる分離は消滅する。生は闘いではなくなる。見ているものや感じるもの、あるいは常識や社会の圧力、これらのものとは何の関係もなくなる。不良とは自我のことであり、法則を知らない迷いの別名である。なにが良く、なにが正しく、なにが素晴らしいものかを知らないがため、おのがうちの衝動に対処できず、暴走するのである。必ず事故に遭うだろう。痛い思いを繰り返しつつ、苦痛の警告性を学び、生命における正しさ、つまり法則との合致を最終的には学ぶようになる。これが本来の瞑想である。だから、それは誰かが教えるという性質のものではない。みずからが、みずから進んで静けさに学び、静けさに深く入りゆくこと、この心地よい自発性が誤って集中と呼ばれているものである。それは集中ではなく自然である。唯一、争いから自由である調和である。これを知るためだけに、あらゆる学びが存在してきた。真我を知るためだけに、自我とその物語は存在してきた。しかし、ひとたび法則に入るやいなや、もはやそれらは何の意味もなくなるのである。

教育の名のもとに、これからも良くないことが押しつけられ、子供は不良にならざるを得ないだろう。そのまま肉体は大人になっても、なにが良く、なにが良くないかを、見い出す方法も分からなければ、その必要性や火急性にも迫られないだろう。やがて苦痛は耐えられないレベルに到達する。ここからが祝福である。キリスト教徒が誤って魂の闇夜と呼ぶこの時期、あらゆる人がその暗黒に迷い、様々な宗教や教えを渡り歩き、結局は誰も何も教え得ないことに傷つき、その傷ついている自分が誰なのかという根本へとたどり着き、もはや逃げずに、おのれと対峙するようになる。こうして、手足よりも身近にあった答えに到達し驚く。何もしなくてよかったのである。それは、努力をするなという意味ではない。何かをさせる諸体のフォースが、いずれも高位のエネルギーに変性され従ったとき、つまり魂に整列したとき、行為は終わるのである。法則から外れていた者が、法則に入るのである。したがって彼はもはや騙されないし、間違いを犯すこともない。彼は生命という法則そのものに一致したからである。これが真の更生であり、真のよみがえりである。

高校生のいとこは、そのあり余るパワーをMMAのジムで発散し、格闘技で更生できると言っていたが、それは、統御できないフォースを一時的に別のもので発散しているだけであり、何の更生でもない。格闘技で不良は更生できない。言い換えれば、争いや殴り合いで人は愛でありえない。これらのラジャスは、サットヴァへといずれ変性されるだろう。物質の質料に備わるフォースにわれわれは責任を負っていることを覚えておかねばならない。まだこの高校生には理解できない話であるが、われわれは理解しなければならない。肉体が死ぬと、普通はしばらくアストラル界に滞在することになるが、肉体がなければ進歩はできず、必ず人々が悟りとか高位のイニシエーションとか呼ぶものは、肉体を纏った状態でなければ達成されえない。その理由は、各々の魂が各々に割り当てられている諸体に責任を負っているからである。このため、自殺は常に解決にならない。肉体を纏った状態であることに価値があり、この意味において、人生には価値がある。特定の何かになったり何かを達成することには価値はない。そのような欲求を抱かせる原因、それらへ駆り立てる恐れの原因である物質のフォースだけが問題なのである。これらの統御に成功したとき、われわれは新しい意識領域に気づくようになり、それが徐々に当たり前になる。このときだけ、私は更生したと人は言えるのであり、それまではみな不良である。

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