童心

寝る前、童心に帰る人は多い。気持ちよくなり、幸福感が包み込み、一時的に世界を遮断する睡魔の力に受容的になる。心配事や考え事にひどく縛られている場合、肉体は疲れていても、世の中への執着が勝り、幸福ではなく苦痛、弛緩ではなく緊張が持続し、不眠症に悩まされることになる。それは世界に悩まされているのである。硬直や緊張を和らげる物質を摂取しないかぎり、活発なマインドを抑え、睡眠へと導入することはできなくなる。

精神科、あるいは心療内科で薬をもらうことはできるだろう。しかし、処方する医者がしばしば薬の世話になっており、世界に悩まされているか、世界に何かを求めている。学校が教えうる知識を医学と見なしているため、おのれに無知であり、心理に通じておらず、ゆえに患者を助けるための答えはなく、薬つまり物質の力を利用する。真の自己が物質ではないことを医学はまだ知らず、魂を処方することはない。

われわれは物質に支配されている。非物質の生活を求めなければならない。ここに間違った解釈が生まれやすい。例えば、便利なモノが増え、モノがわれわれを捉えている。この弊害に気づきだすと、断捨離やミニマリズムなどと言い出し、自身を見ることなく、モノだけを捨て始める。出家したり、隠遁やサンニャーシンなどに憧れたりして、義務から逃れ、肉体だけ世界から孤立を試み周囲に迷惑をかけることもある。こうして、自分が何であるのか、この問いからは逃避する。何をしようが、何処へ行こうが、自分はついてくるだろう。逃避させる力とは何なのだろうか。物質そのものの力に捉えられるのはなぜなのだろうか。

このような問いの価値を理解しだすと、人は瞑想するようになる。しかし、別の状態や境地を自分として求めており、その自分には興味がない状態が続く。何であれ原因は自分、私である。私は探究されるものではなく、すでに状態として在る。瞑想は考えることではない。考えないようにしようと考えることでもない。自我が出来ることは、せいぜい、そのような精神つまり私の動きにただ無執着に気づいていることである。気づいたとき、精神はほんの一瞬だけ静かになる。この静けさが連続するようになると、時間から自由な視力が回復する。ただ見ていられるようになる。それは思考の埒外でただ気づいている。その傍観意識は自由かつ平和であり、自我としての私ではない無垢と無邪気である。人間は、この状態がむしろ進化系であることに次は気づく。

この傍観は日常も巻き込みだす。霊的な中心に固定するようになるため、そうでないものをことごとく弾き始める。そして、「何とも関係がない」と感じるようになる。これが魂との融合の初期症状である。ここまで来ると、あとは急速であり、自動的つまり自我の何の努力とも関係がなくなるため、ここを目指すべきなのである。つまり魂である。この状態は、睡眠直前の幸福が予感させたもの以上の至福をわれわれに思い出させる。世界を知らない赤子のように、何も問題ではなくなる。それは物質の対極にある内在の超越である。あらゆる人つまりあらゆる私の背後に、この絶対が存在している。それが真我であり、世界であり、すべてであり、すべてのものの原因であり、原因のない原因であり、魂が覆い隠している実在である。

こうして、人間つまり通路は偉大な方の純粋な媒体になる。つまり、人間と霊が一体化し、物質や形態を通して自在に自身を表現できるようになる。そのとき、愛をおいて他に重要なものを、誰が主張できうるだろうか。

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