あらゆる霊的な失敗

教師から非分離の精神を教わり、われわれは感銘を受けるかもしれない。新たな理想と目標に熱誠をいだき、愛あふれる自分でいられるよう、日常生活で苦闘しはじめるかもしれない。これはやがて無意味と知られるだろう。自分として努力している。よって分離した自分を強めるだけである。自分が静まったときにだけ愛は妨げられず開示される。愛と自我は両立しない。活発なマインドが分離の発端であり、愛の殺戮者である。想念なき状態だけが愛に統合し、非分離の平安をもたらす。マインドは絶えず変異し、次々に思考を生み出すが、それらの形態と絶えず同一化し限定している結果が、個我の意識なのであり、それは壮大な虚偽の上に成り立っている苦痛意識である。

この理解があるとき、愛そうという発想はなくなる。愛でない自分、寛容でなく怒りっぽい自分、他人との対立や摩擦をもちたがる自分、これをどうにかしようとは思わなくなる。受け入れようとしたり、克服しようとしたりして、抵抗しなくなる。個人とはそのようなものである。ただ無視することの偉大さを知らねばならない。想念や感情がいくら自己主張をしてきても、関わりを持たず、魂としてマインドを統御し続けるなら、愛意識へ入るだろう。はじめて愛が何であるかを知るだろう。この愛を知ったならばどうなるだろうか。自我は愛におのれを失う。この美しさは言葉にならない。

ならどうやってマインドを統御するのか、という質問はマインドがしている。マインドより高位のもの、マインドが自然に従ってしまうもの、それは愛の主である魂である。したがって魂と接触を強化することで、意識において融合が促進され、やがて何の想念とも関係がないという感覚が育成される。ならば、どうやって魂と接触するのだろうか。われわれが瞑想するのは、魂と接触するためである。普通は自分意識しかないが、正しく瞑想を続けるならば、ここに真の自己と思われる偉大な力が到来し、情緒や想念といった人間の低位性質を次々と掌握し、静けさを通して、愛と喜び、平和と至福と自由を教えるのである。

あらゆる霊的な失敗は、自我としての実践にある。自我は破壊の対象であり、自我ですることはいずれも自我を強化する。この自我の動きと関わらないことが静けさであり、瞑想である。続けるなら、瞑想中に静かになるだろう。失敗の時期と前進の時期は交互に訪れるが、いずれにせよ静かになるだろう。こうして、必然的に魂と接触できるまでになる。それまでは自分として重荷をひとり背負って生きてきたが、それ以後は、魂に何でも預ければ良い。彼が解決してくれるだろう。そのうち、融合が促進され、彼が自分であるようになるだろう。つまり、非分離は去るだろう。

最も残念なのは、このような文章を読み慣れることで、感受性がなくなり、真に自分にとって重要なことでなくなることである。読んで終わり。疑いをはねのけ、希望ではなく素直さを持ち続け、瞑想を信頼していただきたいと願うものである。魂は万人のものであり、魂が見放す人間は一人としていないことを信じる素直さが必要とされている。

愛を考えたり、教化したり、実践したりすることはできません。愛や同胞愛の実践は、依然として精神の領域内のことであり、それゆえ愛ではないのです。こういうことが全て止まったときに愛が現れるのです。そのとき愛は量ではなく質の問題なのです。あなたが一人の人間を愛することを知ったとき、あなたはすべてのものを愛する方法が分かるのです。あなたが愛しているときには一も多もないのです。ただ愛があるだけです。私たちの抱えている問題が解決されるのは、愛があるときにかぎるのです。そのとき私たちは愛の喜びを知ることができるでしょう。

ジッドゥ・クリシュナムルティ「自我の終焉」 p.343
目次