何もしない瞑想

瞑想は何もしない。これを自我で解釈すると、ただ空想することになる。それは何かしているのである。空想をしている。自我は、想念と同一化していたことに、ただ気づくことができるだけである。気づくと、同一化は失われ、対象の想念はなくなる。つまり養分不足で死滅する。空想を続けるなら、その思考には生命力が吹き込まれ、十分に強く、詳細で、持続的なエネルギーが加えられた場合は、いわば現実化する。これを平均的な自我は意図的にできないが、無意識に同じ思考傾向を繰り返しているため、同じような現実や出来事が繰り返される。だから現実を変えたかったら、正しく思考し、正しく生きることである。

想念に対する訓練を行い悪用する者も当然いる。それは左手の道、つまり黒魔術と呼ばれる自己破滅の道である。想念物質を利己的な目的のために操作しないように。あえて地獄を経験する必要はない。

話を戻そう。思考することは瞑想ではない。しかし思考に気づくことは瞑想である。つまり外へ出ていこうとする傾向を阻み、自我もしくは諸体のエレメンタルを意図的に養分不足にすることが意識的な瞑想である。これが、何もしないということの意味である。しかし、この話の主体が魂であることを長らく自我は理解できない。

思考していることに気づくとき、思考はなくなる。これを自我が理解すると、次々に思考に気づきを適用しようとする。こうしてまた行為という過ちを犯す。自我は、この動機をもった思考や試みにふたたび気づく必要がある。しかも何の意図もなしに。……ここまで書くと、それは自我には無理ではないかと思われるだろう。なぜなら、常に自我は利己的な動機を持つから。その通りである。その自我の無能に気づくこともまた瞑想であるが、本質的に、これで自我が瞑想できないことが理論的には少し理解されるのではなかろうか。瞑想と自我は対義語なのである。

こうして自我は混乱する。どうすれば良いのか。どうもできない。しかし想念は勝手に生まれてくる。私には瞑想できない、解決できないと自我は言う。これらの情緒的な思考もまた、良いとか悪いとか判断を入れることなく、ただ無視するといい。しかし、自我は無視を「しようと」するのである。これもまた行為に陥ることになる。つまるところ、自我は行為する生き物なのである。なぜなら、行為によってしか生きながらえない存在だからである。ここに、自我の構成要素に関するヒントがある。この自我の動き、つまり行為を無為にするのが魂である。瞑想は無為であり、無為の主は魂である。

魂は自我の「行為癖」を自然に静かにさせる。だから、なぜ魂が強調されねばならないか、理解されるだろう。なぜ、自我で努力することが霊的には失敗につながるのか、理解されるだろう。このように自我に精通し、自我への関与と信頼を失うことが、魂を呼び込む静かな土壌を作るのである。

瞑想するのは魂である。瞑想は積極的な活動であり、消極的な状態ではない。瞑想の名の元に行われている活動の多くは危険で無益なものである。なぜなら、統御しようとしているのが物質界の人間であり、彼の努力は脳を静めることに集中しているからである。彼は脳細胞を静めようと努め、それを消極的で無活動な状態にしようとする。しかしながら、真の瞑想は魂とマインドに関するものである。脳の受動性はより高位の状態に対する自動的な反応である。したがって、……魂との接触、そして「思考原理の変異を静める能力」が、あらゆる脳の活動や反応よりも先に起こらねばならないのである。

アリス・ベイリー「魂の光」 p.402
  • 「瞑想は積極的な活動であり」とあるが、魂において積極的という意味である。瞑想において自我は陰、魂が陽である。
  • 「思考原理」とは簡単にいえばマインドのことである。だから、魂との接触と、それに伴うマインドの変異つまり想念を次々に生み出す働きを静める(魂の)能力が第一に重要である、という話である。
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