魂の波動と接触の違い

魂の波動を感じることと、魂との接触は違うのかという質問について。それは異なるものである。彼自身が来られることは、全く違う体験である。自我は、瞑想しているときか、静かにしているとき、いきなり彼が来られたことを認識する。それは接触という言葉が適切である。或る存在が内的に来られる。この偉大な内在者と接触するとき、必ずしもそうだとは言わないが、自我はおそらく最初、感覚としては不快だろう。これは意外かもしれないが、それほど、個人環境の波動とは異なるのである。それは高い波動であるため、順応できず、マインドは不快と解釈してしまうのである。

そのまま瞑想を続け、彼と共にいることが重要である。二度とその生涯で邂逅はないかもしれないのである。自我は、瞑想の最高点で偉大な接触や達成をすると思っているが、必ずしもそうではない。全く不意に来られる。彼の波動に習い、それに波長を合わせるよう努力なしに努める(これが魂の為せる無為の行為である)ことで、徐々に整列するだろう。たぶん、一時間か二時間くらいかかるかもしれないが、その波動存在と融合せねばならない。すると、超自然の感覚に入り、最初の不快さはなくなり、彼が完全に清純であり、純粋であり、サットヴァであることがわが内にて知られるだろう。それは厳かな静寂であり、ゆったりとした時間なき平和であり、慈悲であり、苦闘が報われる偉大な報酬である。

この接触は、それ自体では自我に大きな変化をもたらさない。自我は、接触に成功したことを知り、その感覚や体験に感銘を受けるだけである。それから何度も接触に成功するようになるだろう。何ヶ月おき、何年おきかもしれないが、接触し、その都度なにかしら恩恵を受けるだろう。そして、ますます魂と融合したいと思うようになり、彼の教え、それは波動の教えであるが、彼の器であるコーザル体のエネルギーに、自我つまり諸体のフォースを意図的に従わせるようになるだろう。こうして融合は深まり、アストラル偏極からメンタル偏極、メンタル偏極からコーザル偏極するようになり、一体化と呼ばれるがその概念や言語とは全く異なる超越に真我を知るだろう。真我が、魂を通して真我に導いたのである。こうして、三は二になり一になる。

彼の来訪条件は、自我には全く不明である。特に波動が高い状態でなくとも、突然そこにおられることを認識する。魂は常におられるが、知覚できないだけである。起床後や、就寝直前など、自我の生命力が活発でない時に認識しやすいだろう。以上の話は、特別な人に関係のある話ではなく、瞑想する人に関係のある話である。また、波動が先か、接触が先か、という質問については、一般的には波動が先だろう。なぜなら、波動を頭部に感じるようになることと、彼つまり存在自体が内部に一時的であれ棲まわれることは、波動の強度が違うからである。これに耐えられる媒体になるため、我々は瞑想し、自我つまり不純を浄化し、ラジャスとタマスを除去し、低位エレメンタルを統御し、諸体を精製しようとしているのである。

しかし、接触は目標ではない。それは必然であるが、コントロールできない不意のものである。だから決して執着することで波動を落とさず、いま出来ることを正しく無執着にこなしゆくだけである。この無執着が、魂の波動と似ており、波長の一致を引き起こすのである。こうして、人間は霊的人間になり、三界のものと関係をもたない無反応の超越至福を知るのである。

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