結婚願望

三十をいくらか過ぎた女性が二人、結婚相手がおらず、誰か紹介してほしいと仰る。気持ちは分かるが、なぜ結婚しなければならないのだろうか。つまり、何が怖いのか。何が不安なのか。何が満たされておらず、何によって満たすことでそれが解消されると思っているのか。何と比較し、誰と比べて、自身が惨めだと感じているのか。また、特定の相手が見つかったとして、その相手が空虚を埋めてくれたとして、その相手に今度はすがりつき、その相手が自身のために存在するよう、束縛や執着が始まり、裏切りを恐れるようになる。なぜ、誰かや何かによって満たされる必要があるのか。それは無理である。一時的に満たされた感覚はあるだろうが、かなり一時的である。そうでないという人も、いずれそうだという現象に出くわすことになる。自分も含め、執着する対象は必ず無くなる。

「人類はなぜ恐れ自体を無くすために頭を使ってこなかったのだろうか」と、ある聖人は言っている。子供を産みたいが年齢が迫っているとい仰る。なぜ子供が欲しいのだろうか。子供が生まれたら、あなたの何を満たしてくれると期待しているのだろうか。こういう”自身の利己的内情”に精通していない限り、何をしても苦悩、欲望、恐怖からは逃れられない。幸福と不幸が交互に訪れるだけの一生、空虚を満たすために空虚そのものを見ることなく、空虚から逃避するだけの一生、穴埋めの一生、つまり何ら知的ではない衝動的な一生に甘んじることになる。このような無知が一番恐ろしいことを知らねばならない。

孤独は全く恐ろしくない。人が持つものを自分が持てないことは怖くない。内を見ないゆえ、外の世界だけが唯一の現実になっているだけである。外の触知できる映像でしかない肉体が自分と錯覚しており、真実から遠ざかっているのである。ある人が、このブログでいう自作自演の「自」とは何を指すのかと言ったが、それは明確にマインドのことである。マインドが、すべての錯覚の根源である。外側の個人が孤独だったり、嫌われ者だったり、変人扱いされていたり、弱かったり、不細工だったとして、何の関係があるというのだろうか。真我と言いはするが、本当は自我や肉体を自分と思っているから、永遠に錯覚と同一化しており、見たいものを見ており、唯一なる流れである純粋エネルギーではなく、諸体のフォースに条件づけられたままなのである。外側がどうであれ、何の関係もなく太陽は輝いている。近視眼に陥らず、このことを知るべきである。内で知るべきである。

我々の多くが、この種の個人的な苦悩を抱えている。したがって、この苦悩を治療したい。しかし、何を言っても、多くの人がそれを本心では望んでいない。言い換えれば、その物語を自分で作り出し、その物語に没頭したいと願っている。つまり自作自演に陥っている。だから我々としては、聞く耳のある者、つまり準備の整った経験豊かな者、「私」という物語に疲弊した者に話しかけるだけになる。迷い、分からなくなり、どうしようもないならば、幸いである。このとき、瞑想することが可能になるだろう。外に助けを求めず、本当に内に真実を見出そうとするだろう。結局誰も助けてはくれないのだから、内に本物を見つける決意を固めるだろう。彼だけが助ける能力を即時に備えている。

孤独は恵みである。求めるものが得られない環境は、試練ではなく愛である。これが分かるだろうか。真の家は個人ではなく、内に存在する。見ている視点を切り替えるためには、それが間違いだと知りうるために、少々の痛みを伴うだけである。死すべき肉体や精神に生きて何になるだろうか。私とは何なのか。死体になる物質だろうか。この意識だろうか。誰がこの線で内を辿っても、唯一なる存在に到達するだけである。したがって、行為をしている者はいない。見える世界での客観的な自分というものも全く存在していない。これらは、真我とは無関係である。だから、どんな人であれ関係なく真我に到達できるのである。特定の者しか到達できないならば、そんなものは求める価値がない。誰にでも開かれた門でないならば、そういう門は閉じたままで結構である。内なる門は、開きっぱなしである。それに感応できるようになるまで、しばらく瞑想が必要なだけである。

外の個人は我々ではない。瞑想を正しく行うことで、内に焦点を合わせることが可能になる。これはゆっくりである。子供の身長が大人の身長になるぐらい、ゆっくりである。しかし気づいたとき、高位の目線は自然なものになっている。孤独ならば、その環境を利用すべきである。家庭の重荷を背負うならば、しばしば私的な事情に忙殺され、瞑想は後の生涯にお預けになる。結婚相手を求めるのではなく、内なる結婚だけを求めるべきである。肉体同士の合一ではなく、内なる合一のみが至福と知るべきである。子供を育てるのではなく、内なる愛情を育てるべきである。それを為すのは瞑想ではなかろうか。どんなつまづきも、瞑想が答えを教えてくれる。何が間違っているのかを、その都度教えてくれる。いつも助けてくれるのは瞑想なのである。これを散々経験するならば、もう抵抗しないだろう。どっちが本物か識別するようになるだろう。本物の流れと、自身の好き嫌いやマインドの結果である抵抗とを、識別するようになるだろう。フォースを統御し、エネルギーに従うようになるだろう。

我々がすることはない。存在していないものがするということはありえない。ただ一つの存在が在るだけである。見えるものに騙されず、真に内を見るならば、その内観は愛を教えるだろう。絶対に無くならない喜びと至福で包むだろう。これに感応できないのは、全的に自我ゆえである。我々ゆえである。どこかしらに間違いがあり、視点とすがりつく対象に誤解がある。これらを、無によって上書きするのは魂である。瞑想でいくらもがこうが、それが抵抗だと教えるのは魂である。彼が訪れて、我々は静かになるのである。つまり、三重の諸体は魂に整列し、魂意識に入るようになる。それが自然になる。そのとき、より高位の意識を知った”副作用”として、自我意識には戻れなくなる。分離意識は完全に苦痛になる。想念があることが苦痛になる。生命の移行には苦痛が伴う。間違いの矯正には時間もかかる。しかし、ゆっくりであることに価値がある。そうでなければ、人間は高位の波動に耐えきれず、死ぬだろう。徐々に耐えられるようになることが、一番安全なのである。内なる者は馬鹿ではない。そして運命をコントロールしているのは我々ではない。やがて一者が来るだろう。どのような信念も知識も、彼によって上書きされるだろう。つまり、我々は唯一なる方と同一化し、外的自己と関係性を失うだろう。この世には、個人的な理由で用はなくなるだろう。個人はいなくなる。孤独を通して、個人は内的な結婚、内的な家庭、内的な調和、内的な合一、全一体へと貫通する。したがって、私が紹介するのは真我だけである。

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