無題

忙しくて中々書けないこと、ご了承いただきたい。外的生活が多忙の周期に入ったとして、それは内的太陽においては何の関係もない。誠に、自身が行為者であるという錯覚は人を地獄に追い落とす。壮大な目標ないしは目的に向かうとき、多くの仲間たちが頓挫する。当初のエネルギーを失う。様々な思いや感情に負けて、都度、自作自演に入り、自らしておのれを無力化する。想念や情緒が強いのである。それらを無視できるくらい、魂が勝っていなくてはならない。どんなときも喜び、愛、平和で生き生きとした静けさに没入し、その高みから行為は見られねばならない。自分が行為者と錯覚するなら、かなり辛いと思うのである。自分にはできないとか、できが悪い、遅いとか、比較や評価が入り、次に感情や想念で自らをいじめる。この種のフォースは、魂を通して流れ来るエネルギーつまり真我の前ではおとなしいものである。おのずと、自発的に高位の流れに従うものである。なぜなら、エゴつまり人間の魂が、それらと同一化しないため、それらが隆盛を得ることはない。それらはパートナーがあってこそ生き血を吸うことができる。自我は、本質的には幼い魂の結果である。

情緒や想念に文字通り生き血を与えるならば、勝手に自身でおのれを疲弊させ、自滅へ導くだろう。穴の空いたバケツと言うが、諸体のフォースに条件づけられている者は、そのような状態にある。もしくは内側に無駄に念を抱えて、抱えたフォースが鬱血し、腐り、病気の原因になる。エネルギーとフォースを識別し、エネルギーつまり本質的な流れに入らねばならない。エネルギーが行為者もしくは行為の原因である。ここにエゴつまり人間の魂が介在するとき、魂の年齢つまり発達段階とか進化段階とか呼ばれる一時的な制限によって、錯覚が優勢になり、エゴはフォースと同一化し、個我の感覚に溺れて、何かを自分がコントロールする者であるという想念に生きるようになる。このような若々しく元気な想念とは無関係に、真我はそれらの雑音を観照している。音を観ている。観音とは内なる真我である。

内なる観音に生き、外なる雑音に生き血を吸わせぬならば、いわばエネルギッシュになり、その用途における効率性は、平均的な自我の力量の数百倍か数千倍にはなるだろう。本質の流れから行為が行われるならば、その愛の行為、善を可能ならしめたエネルギーに、我々は感謝を覚えるだろう。しかも無執着に。普通の人の「ありがとう」は利己的な発言であり、内的には醜いものである。感謝は愛の連鎖である。愛が愛を産み、愛の流れが普遍の海へと還流する。

ある者が人生でつまづいている。重症である場合、自ら立ち直れないために助けがいるだろう。一人で立てるようになり、笑顔の日々が戻ったならば、その者から去る。それで裁判を起こされたこともある。裏切ったと。見捨てられたと。一人では何もできないと錯覚し、恐れに負けたのである。私は一円ももらわず、むしろその者に毎月十分な収入が入るまで仕事を立て直したではなかろうか。これほど、自我は天国と地獄を簡単に行ったり来たりする。この前まで、親子の差がある私に泣いてありがとうございますと言っていた者が、今度は怒りや恐れに負けて裁判である。このような者に、瞑想という治療が与えられたらと思う。しかし、瞑想ができるぐらい魂が年寄りではないため、人生は苦しみと喜びをこれからも交互に繰り返すだろう。その中間点に留まること、秘教徒が相反する極と呼ぶものの中道、つまり魂への道を見出さぬかぎり、個人意識の犠牲になるだろう。したがって、現状、瞑想できるような人類の先駆者たちが頼りである。最高の奉仕は間違いなく真我を見い出すことである。

求める者には与えられると言う。このような言葉は響かない。求めないとき与えられるだろう。自我で求めて何になるのか。自我が求めるものに何の価値があるのか。錯覚は無視に値する。死刑とは視刑である。観ることで対象は養分を得られず餓死する。観るとは、関係しないという意味である。無執着とは無関係である。無関心である。なぜなら、内なる至福に勝るものはありえないからである。この愛を去って、どうして個人意識を求めるだろうか。分離が苦痛である。自我つまり想念で観るのではなく、それらが去ったあとに目覚める視力で音は見られねばならない。雑音と、真の音色を識別せねばならない。苦しみと、愛を見分けねばならない。死人のように、この世に目を瞑らねばならない。生き返るだろう。行為は視認に席を譲るだろう。

一つの流れがあるだけである。個の運命は近視眼の産物である。この種の錯覚は恐怖を呼び起こすための道具にされることが多い。この世で言われている、いわば定説のようなことが、瞑想したとき、事実ではないことを我々は見い出す。努力が美徳と言われるが、瞑想したならば、努力は調和を阻害する抵抗だったではなかろうか。悪人は地獄行きと言われるが、瞑想したならば、天国しかなかったではなかろうか。また、悪人など存在しなかったではなかろうか。真理は価値観を超えている。この世の不平等は、内なる平等に席を譲るだろう。なぜ、本当の話が広まらないのか。自身がつまらぬものに執着せぬかぎり、どこにも脅したり怖がらせたりできるものはない。霊的な達成も、多くの修行者が陥る執着の一つである。修行するのは誰なのか。何をこれまでしたかと聞かれたが、可能なとき、つまり日に一時間か二時間、あるいは二時間か三時間、座って瞑想し、あとは静かにし、静かにしているほど魂が好きになるものだから、魂に集中していただけである。進化とか進歩とか、夢や希望とか、悟りや解脱とか、そのような欲望とは関わらなかった。想念や情緒でしかないものとは関わらなかった。魂が、関わらせないような働きをするようになる。偽物と本物の違いを教えるようになる。意識の手綱を握るのは、個我ではなく真我になり、生命は徐々にその焦点を移行する。

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