土台

土台のない家は壊れるだろう。自我は、そのような家である。すぐ飛ばされるし、脆く崩壊する運命にある。そこで自我は、特定の信念とか、誰かとの絆とか、お金や権力とか、この世の何かで土台を構築しようとする。それが人生だと思われている。弱さから強さへ、不安から安心へ、不幸から幸福へ、自身の運命を切り開くことが人生だと言われている。つまり恐怖から逃れることが人生になっている。誰も恐怖自体を扱わない。恐怖をかき消す一時的な何かを求めるだけである。そこで、自分の土台とは何だろうか。この問いは熟考する価値がある。人それぞれ、精神の破綻を防ぐため、おのれを支えうる何かを集めており、それにしがみついている。しかしこの世のものは変化の法則にさらされており、自我の期待に応えるにはあまりに無常である。したがって、土台を外の何かで構築する努力は意味をなさない。現状、世界人口のほとんどが、このことが分からないで苦しんでいる。それは、一つには抜け出し方が広まっていないからである。この手の話は、今のところ、宗教という意図的な悪の管轄下にあり、それは知的な人には嘲笑の対象もしくは富や権力の実現手段でしかない。そして大多数がいかに高学歴であれ知性を利用しておらず、宗教や信仰や無信仰や価値観といった土台の犠牲者として甘んじている。このような人類の惨状を打破しなければならない。

我々は、土台のない家から引っ越すことができる。引っ越すためには、引っ越し方を習得しなければならない。それに精通するために時間と労力を注ぐことが生の目的になっているべきである。経験が浅いとき、我々は欲望や恐怖をモチベーションにしがちである。これは依然として外のもので土台を構成しようとしている。つまり自我で行っている。モチベーションで物事を行う者は無知である。川は自然に流れている。自然に大海へと流れている。これが唯一なる流れである。もし自我がモチベーションを利用するならば、この自然の流れに抵抗することになる。誤った私、分離した自己が独立して事を為すという想念に引きずり回されることになる。これは苦痛である。人間は、自分のために生きれるほど頑強ではない。本来の自分を知ることによってのみ、本来の在り方に落ち着くことができる。それは自然にして調和であり、いかなる努力とも無関係である。

引っ越し方は、瞑想中に魂から習うものである。他人は教えられない。また言語の埒外のものを言語が伝えることもない。したがって、本の読みすぎは瞑想を妨害する。初期段階は知識が優先されるため仕方がないが、その段階を通過したならば、知識は少しずつ手放すべきである。また特定の師を持とうとする癖のある初心者も、真の師は自分であることを認めなければならない。土台とは真我である。真我が自分である。瞑想によって頭部内の”工事”が首尾よく進むならば、一切は難しくなくなる。頭で考えて難しかったことは、すべて簡単になる。このとき、引っ越しは時間を超越して自在である。どの意識、あるいはどの世界にも瞬時に切り替えることが可能になる。そのとき、なぜ自我意識である必要があるだろうか。それは徐々に無理になるだろう。魂意識が当たり前になるだろう。分離の壁は魂の特質である愛が乗り越えさせるだろう。

瞑想は魔術的である。人々が瞑想を知るならば、魔法や奇跡といった言葉で表現し驚くだろう。土台を外に求める必要はなかった。私が土台であることを真我として知るだろう。それは太陽のように永遠に超然と輝いている。それは壊れない至福であり、恐れを知らない愛である。それはまた快進撃であり、強烈な愛の意識拡大である。それは幼児期に一時的に知っていた無邪気の根底にある天真爛漫であり、したがって懐かしいものである。我々はそれを知っていた。だから、一なる意識に入る前の最後の想念は、「私はそれを知っていた」という驚きであるかもしれない。幼児期に、そこから脱落したのである。子供が大人になるとき、それは堕天使を意味する。大人は怖がりだが、真の子供は恐れない。恐れようがない。なぜなら、驚異的に愛に包まれているからである。愛が魔術である。愛は天も地も何もかもを押し上げ一変させる。自我は性質上利己主義であり間違った自分という内に向かっているが、愛は真の自己つまり一にして全であるため内向と言うより外向である。つまり解放である。殻を破る爆発である。それは限りなく美しく喜ばしいものである。

ある者が、忘年会続きでひどい二日酔いだと言っていた。なんという無知だろうか。二日酔いは肉体的な作用による苦痛だと言われている。ならばなぜ、瞑想者は二日酔いにならないのだろうか。それは、二日酔いを経験することはできるが、そっちの意識に焦点を置いていないためである。どっちも実際は経験できる。二日酔いの苦痛を味わっている個人の意識に入り込み、あえて偽の苦痛を体験することも可能である。しかし、それらは本質的に想念である。瞑想はマインドを統御することである。統御するのは魂である。魂に意識を置いているならば、なぜ個人的なものを何も感じないのだろうか。なぜ愛にしか酔い痴れることができないのだろうか。外的な苦痛は、それが心理的なものであれ肉体的なものであれ、実際はそのような区別はなく、何に同一化しているかの違いであり結果である。何が私であるかの違いである。マインドという個人意識に焦点を当てているならば、個人に起こることをすべて体験することになるが、長年の瞑想で個人と魂との障壁を貫通させたならば、我々は個人から自由な精神の奥底に秘境を見出し、外的個人にまつわる一切の嘘から隔離されて愛という喜びに輝くだろう。すべて、焦点の問題であり、焦点は識別力の問題である。そして識別力の主は魂である。

人間は、自我の限界を知り、個人に生きないことで真の土台に導かれることを知らねばならない。意識の引っ越しが可能であることを知らねばならない。そうでなければ、分離した環境で偽の目的に支配され不調和と争いに巻き込まれ続けるだろう。偉大な存在は、目的は合一ではなく生命の移行であると言っている。人間の活動は諸体のフォースに条件付けられており、三界がしたがって活動拠点である。正しい瞑想を続けるとき、個人というものは、いわば高位のエネルギーの伝導体となり、それゆえエネルギーとフォースを識別できるようになる。本流を人は認識し始める。それは全く個ではない。全体で一つの流れである。この意識に入るとき、一切の苦闘は報われるだろう。長らく、自分には無理だと思われたものが当たり前のものになるだろう。誰に無理ということはない。誰にだけ可能というものでもない。自我は、ネガティブな思考を自身が生きながらえるために利用する傾向にある。自我は、自我が死なないためには何でも利用するだろう。しばしば肉体の自殺さえ利用する。自殺しても、なくなるのは肉体だけである。だから解決しない。自我に騙されてはならない。彼は嘘の塊である。マインドは詐欺で生計を立てている。世の中で信じられている全てが嘘である。なぜならそれは想念だからである。真我と世の中は関係してすらいない。それはせいぜい影である。錯覚か誤解である。マインドがしずめられたなら、錯覚や誤解はしようがなくなるだろう。希望とは真我である。真我への手段は普通は瞑想である。目を瞑り、想念を瞑ることである。やがて、まぶたは超越されるだろう。

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