フォース

見ていること、気づいていること、離れて捉えていること、これが同一化を防ぐことであり、統御である。最初は意識的であっても、やがて自動的になるだろう。瞑想後、すぐに自我に戻るという場合、この気付きが途絶えている。目を開けて見える世界の住人という想念に屈している。そのため、自分が行為しているという危険な感覚を余儀なくされる。行為ではなく観照である。諸体のフォースに条件付けられるのではなく、フォースをエネルギーによって統御することである。このエネルギーが生命であり真我である。個人と錯覚して行為するならば、それは安全ではない。見ている限り、気づいている限り、マインドとの同一化からは免れ、低位の波動に引きずり下ろされずに済むだろう。個人的な私ではなく、背後の生命に由来したままでいられるだろう。

想念は、個人を通過した後のフォースだが、それは「私の想念」ではない。「私」と「想念」は等しく想念である。内への隠遁を保持するときのみ、これらの錯覚やフォースを統御できる。したがって瞑想時の高所を、目を開け世界を映し見たまま維持できる。

これは重要な点である。「私」も「想念」も、統御されるべきフォースでしかない。「取るに足らないもの」もしくは「従順たりうるもの」という意味で言っている。そこにあえて息吹を加えて大きくしているのは統御されていないマインドの無知ゆえである。「私」とも、「想念」とも、我々は関係していない。我々が想念を見ているかぎり、世界は想念である。つまりその影響下に落ち、めくらの被害を受ける。これが内在の一体性、また愛や至福を閉ざす分離の壁を築いている。

人間意識において、現実とは想念である。つまり、実在と非実在の識別ができないのは、想念との同一化ゆえである。現実の中に人は自分が存在していると思っている。逆である。現実とは想念である。世界とはマインドの産物である。つまり、世界は統御できる。この意味は大きい。なぜなら、恐れる必要がなくなるからである。怖いものは、影である。それは手懐けることのできるフォースである。ただし、我々がフォースを統御するエネルギーと同一化し融合している場合のみ、この理論は成立する。つまり、フォースに気づき、それに条件付けられる瞬間に気づきが勝らねばならない。気づきが、同一化を遮断する。この純粋な気付きは、魂のものである。

これは真に実践的な話である。頭の檻から自由になるための実践である。人は何であれ想念で扱い、想念で納得することで生きている。想念とは物質である。物質に命を吹き込み動かしているのは質料である。そして質料はフォースである。フォースはしかしエネルギーである。ここに無知を解く鍵がある。ここに、唯一なるエネルギー、唯一なる生命の鍵がある。フォースは、敵対者ではない。それは善悪二元論で言えば悪に従っているが、もともと兄弟であり双子である。物質のフォースは、その小さな単位の総体である自我と等しく単に無知に踊らされているだけであり、その暗黒に光を与えられることを本来は切望している。この仕事に我々は携わっている。なぜ、諸体は質料から構築され、それらの中に我々は数えきれないほど転生して来ると言われているのか。霊化されていない物質の質料に我々は携わっているのである。これらが引き上げられるとき、我々は高位の波動や高位の意識といったものに感応できるようになる。これはおそらくオカルティズムの基本である。それは外周から中心へと至る知的かつ意識的な帰還の道である。この霊化を、え間なく行わなければならないという話である。

次のように言い換えることができる。結果の世界ではなく、原因の世界に移行すべきだと。目に見えるものを扱い、映し見ている世界の住人として世界に左右される生き方をやめるべきだと。これは無知と知恵との境界線である。人々の牢獄はマインドである。見ているのは想念である。肉眼が世界を見ているかどうかというのは関係がない。それは見えていてもいなくてもどっちでもいい。それが現実だと思っているのが問題となり、その背後の原因、エネルギーとフォースの世界が分からなくなっている。それは視覚もしくは絵画的なものと言うより、触知できる感覚的もしくはエーテル的なものである。様々なフォースが至るところにうずまき、至るところを埋め尽くしている。空間とは、肉眼で見えるものだけを追いかけている人が言うセリフである。空というものはない。距離や時間や障壁というものもない。時空間はマインドのものであり、現象世界は結果である。この結果の世界というものもまた、相対的な重要性しか持たない。世界を現実視するのではなく、原因の世界に入り、そこから統御することで、世界を超越しなければならない。フォースとエネルギーを自身という小宇宙で調和させ、マインドを超越しなければならない。

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