脱獄

長く刑務所におりました。最初の頃は、娯楽の時間が楽しみで、だいたいテレビを見て過ごしました。囚人仲間と一緒に、脱獄もののドラマや映画を好んで見たものです。登場人物を見ては、あいつはすごかったな。登場人物のアイデアや手法を見ては、あれはすごかったな。鑑賞を終えると、仲間たちと感想を述べ合うのですが、やがて時が来て、刑務官に娯楽の終わりを告げられます。さて帰るか。現実に戻ります。それぞれの牢へと自らの足で帰ってゆくのです。今まで見ていたものは、あくまでドラマや映画です。自身が居住する牢は、住み慣れればどうということはありません。ただの日常です。ただの現実です。ドラマに感化されて、俺たちも脱獄しないかと言う者がおれば、笑われるだけです。誰もが、自身の牢に従順であり、それが本当に牢なのか、本当に閉じ込められねばならないのか、自由になる権利がないのか、法が何を強いろうとも、外へと、我が家へと、帰ることができるのではないか、そのように考えるものはおりませんでした。

刑務所には様々な者がおりました。外の世界では暴れ者でも、ここでは多くが従順です。真面目になる者もおります。犯した罪からは想像できないほど物腰柔らかな者もおります。また許された娯楽の時間、運動の時間にすら、静かに座って瞑想している者すらおります。長く刑務所におりますと、若い者たちが増え、自身は年寄りの部類に入ってゆき、気がつくと、あまりテレビは見なくなりました。騒がしさをあまり好まなくなるのです。若い者たちの御しがたく奔放な声の野太さ、粗暴さ、無礼さ、おしゃべり、一時もじっとしていられないさまには我慢もならず、やがて静かな者が集まる場所、あるいは自身の牢のなかで静かに本を読むようになりました。

博学な仲間がおりまして、いくつか瞑想の本や、聖人の本を教えてもらいました。本を読み終えると、仲間たちと感想を述べ合いました。あの方は素晴らしいな。あの手法は試す価値がありそうだな。各々が尊敬する霊的な教師を我が内に抱えて、教えを信奉し、悟りに近づくため、進歩するため、真理を知るため、「私は誰か」とか、「私は在る」とかやるわけです。しかし効果が得られず、馬鹿馬鹿しくなってやめる者も多くおりました。刑務所内でいじめられている者が、現実逃避のために瞑想しているケースも多々見かけました。誰しも、その状況から抜け出したいのですね。いわば、脱獄するため、逃れるために瞑想するのですが、映画やドラマに夢中な若者と同じように、彼らもまた、ラマナ・マハリシやクリシュナムルティに夢中であり、観念や概念の世界に居住し、瞑想が終われば自我へと帰ってゆき、現実世界では小さな者として仲間にからかわれたり殴られたり、痛い思いをしている哀れな自分のドラマへ帰ってゆくのです。

聖人や覚者と呼ばれる方々の本は私に影響を与えました。彼らの言う通りにやりました。しかしながら、瞑想を続けるうち、彼らの話からは自由になりました。彼らの話や手法は、私の中では嘘になりました。私は「頭」から自由になったのです。自身の想念や知識に関心がなくなり、私にとっての現実は、静けさの先にある唯一なる流れ、神聖にして荘厳なる生命のリズムと波長、それらが導きうる生そのものが現実になったのです。私は流れに融合し、個が一に溶け込むことによって自由を知りました。周囲では、「私は誰か」の意味について議論したり、本の内容や書かれている言葉の意味について、その道の学者の論説を引き合いに出しつつ、仲間たちが意見や主張を述べ合ったりしておりましたが、彼らが「頭」から自由になるのはまだ先であると感じられ、わたし自身が見出したものについて話すことはありませんでした。彼らは頭の中に生きておりますが、私は彼らをそのように動かし条件づけている波動と、真実なる波動を識別し、正しい方の波長に自身という誤った波長を合わせることに専心いたしました。しだいに、自身がまさに牢獄であるということの真意をありありと見ることができるようになりました。

文字通り、私たち人間は、物質に閉じ込められておりますが、物質そのものに支配されているわけではありません。物質を支配している質料やそれに固有の力に支配されており、そこに錯覚したマインドや想念物質が付着し、自分とか他人とかいう想像を付け加えており、人々はその想像を見て何も疑わずその時代の常識や平均的な集団の想念とともに生きております。彼らは自身が夢中になっているものを見ているため、自身という牢そのものは見えないのですね。人間を個我意識に閉じ込めているものも物質ですが、その物質を支配しているもの、つまり質料や波動に働きかけないかぎり、われわれを閉じ込める牢を壊すことはできません。人々は、この牢自体を見ることなく、頭の中、牢の中の想像物や、出来事や、それらが喚起する感情や欲求や恐怖に動かされ、牢そのもの、つまり自分自身からは逃避しております。刑務所の仲間たちで言えば、テレビやドラマには夢中だけど、それを見終わると何の疑いもなく自身の足で自身の牢へ帰っていく者たちと同じように見えるのです。そのくせ、早く娑婆に出たいだとか、刑期を終えた後の話だとか、無知な不平や想像には事欠かないのです。ドラマでいくら脱獄の手法を見ても、あるいは書物でいくら瞑想の手法を読んでも、自身の牢、自分自身へ適用されることは難しいのです。本当は、その自分、その役が好きなんですね。本当に興味があるのは脱獄ではなく、自分なのですね。つまり自分の脱獄物語です。これは、物質の引力の方がまだ優勢かつ魅力的であり、したがってそこから学ぶ必要があることを意味しているのだと思います。彼らが引力の科学を学び終えつつあるとき、彼らの騒動が静まり返ることによって、内なる痕跡の感受性を発達させ、内なる小道、脱出口に気づき、脱獄への集中がはじまるのだと思います。

こういうことを、私は瞑想中に習いました。内なる自己から少しずつ学びとりました。そして彼の教え、つまり唯一なる生命の流れが何にも代えがたく重要になり、他はいずれも無視の対象となり、流れ自体に没入し、融合し、そのたとえようもない愛や至福が、まさに万物の牢となっている物質の質料に働きかけている慈悲のさまを知りました。霊が物質に宿っていると書物は教えていましたが、その意味が少しずつ理解されました。盲目的に暴走し、破壊的に物質を動かし続けている同胞にして兄弟にして力そのものである無知に働きかけるようになり、いわば霊化の奉仕が職務にして喜びになりました。もはや何も分からず動かされる者ではありません。しかし動かす者でもありません。それらの背後に退いたのです。

私は長く刑期を務め、長く獄舎を脱することを願い続けてきましたが、結局は死刑という定められた運命の期日まであとわずかとなりました。しかしそれが私を迷わせたり悩ませたり苦しませたりすることはもうありません。私は肉体におりながら、瞑想を通して内的に貫通し、抜け道を掘り終え、いまやこうして肉体という道具を通して牢からあなたに手紙を書きながら、同時に脱獄して生命であり、すべてがこの生命の統御下にあることに美と完全性を見ております。たとえ肉体が牢に繋がれ、あるいは輪廻という鎖に繋がれていようとも、貫通した今、それは視点の問題となりました。だから私に願いがあるとするならば、それはもはや個人的な脱獄ではなく、全員の脱獄であります。それは、閉じ込めていた牢そのものすら破壊し、刑務所ごと脱獄させ、そこに新たな寺院を建設することであります。私は法に裁かれ、法によって死に至りますが、あなたもまた、肉体で生きるかぎり近いうちに死ぬことを思い出し、そのような錯覚に生きるのではなく、死にようのない生命、誰しも内なる支流から遡ることのできる大いなる生命の大海へと遡上貫通し、長らく忘れられねばならなかった真の自分を見い出すことを願うものであります。牢は自分です。だから牢破りは今すぐ可能なのです。牢そのものに働きかけてください。牢や自身や諸体という物質を構成する質料に働きかけてください。高位のリズムを呼び込み低位を包含してください。そして仲間たちを救い出してください。

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