苦痛の克服

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苦痛の知見

むかし、苦痛を一秒で治せることを発見した。本当の話ならノーベル賞か何かもらえるのだろうか。瞑想するなら、このような技術は初歩的なものである。誰でも習得できる。なぜなら、瞑想は初期段階において自分を知ることだからである。

精神的な苦痛があるとしよう。しかし肉体の苦痛も含め、三界の苦痛はすべて精神的つまりマインドが原因である。マインドが未熟なとき、苦痛という早まった解釈があるにすぎない。この記事では、もっと簡単な、普通の情緒的な心理的苦痛について考えてみたい。苦痛があるとき、一般的な反応は、苦痛は嫌だというものである。苦痛を除去しようとし、苦痛がなくなった状態をわれわれは目指す。これが最初の誤りである。

苦痛があるなら、その苦痛が見られれば終わりなのである。ところが誰も見ない。本能的に苦痛から目を背ける。しかし苦痛を嫌だと思わず、ただ苦痛とは何だろうか、見てみようと思い、間違っても苦痛から逃れようなどといった動機と交わらず、ただ苦痛を見るならどうだろうか。一秒というより一瞬。あったはずの苦痛がない。むしろ、感じ見るのは平和と至福である。このように、苦痛は偉大な霊的状態の扉になりうるのである。

理解されない苦痛

これを見つけたとき、世紀の大発見かのように思い込み、うまく伝わるならば、人々の苦痛を撲滅しうると考えた。現実はどうだったか。いくら話しても理解されない。異国の言語のような顔をされる。分からないのである。苦痛は誰でも感じられるのに、なぜその感覚を誰も見れないのだろうか。感じるものを見れないとはどういうことだろうか。ここに宝がある。どこにもないと言われる。何かがおかしい。

人は見るより逃れようとする

植物人間は苦しんでいない。知能の未発達な人間もそれほど苦しむ能力がない。よく考え込む内向的な人間は苦悩しやすい。安楽を阻害するものとして苦痛を敵対視する第四光線に条件づけられている人間もまた、極度に苦痛に反応する。

苦痛から逃れようとしたり、苦痛に注目を向けるかぎり、それはどんどん大きくなる。やがて病気と見なされる症状にまで発展する。エネルギーは思考にしたがう。注目を向けた対象は大きくなるだろう。見ることと注目を注ぐことは全く別の話である。それは完全に逆の状態である。

方法を教えても、人々は失敗した。むしろ苦痛が強まったと言われる。それは、苦痛を無くそうという動機があるからである。私と苦痛は別のものではない。人間を構成しているのは、肉体とアストラル体とメンタル体である。平均的な苦痛は、アストラル性質の強い、メンタル的な解釈である。フォースの割合と比率において、アストラル色が圧倒的に濃い。つまり、苦痛が自分の構成要素であり、それは分離していない。苦痛と自分が別のものと思っているかぎり、それを除去するとか、それから逃れるといった発想も可能だろう。しかし、苦痛と私は同じである。私が苦痛である。これを理解しているとき、どうして苦痛に抗うことができるだろうか。何が何に抗っているのだろうか。見るとは、無執着に、ただ許し、ただ受け入れ、抱擁し、理解し、愛することである。それは行為ではない。ただの視力である。

見るための視力

最終的に、言葉では伝わらないことを理解した。それより瞑想を強調すべきだったのである。言い換えれば、その人に魂と接触させる方が先であることを理解した。自我が強いため、自我の意味が理解されない。アストラル体の生命力(アストラル・エレメンタル)が強力である。何であれ、アストラル的に解釈されてしまう。ただ見るようにお願いしても、アストラル的な動機を付着させてしまうのである。だから、アストラル界の低位亜界を浄化し自在に機能できるようにするためには、瞑想と魂の力が必要なのである。アストラル界の視力とは、この自在に機能できる能力に付随するものである。

このとき……欲求そのものは魂によって支配されており、切望するものは、全体の利益になり、魂の意志に適うものだけである。アストラル・エレメンタルは統御され、情緒体は浄化されて、透明になり、低位性質は急速に死滅していくことになる。この時点で、魂は二つの低位諸体を新たに掌握し、自分の意志に従わせる。奉仕し、愛し、進歩しようという熱誠と切望が非常に強くなり、通常は急速な成長が見られるようになる。

アリス・ベイリー「イニシエーション 」p.123

個人の問題はなくなる

正しく瞑想を続けることで、静かにならない人はいない。三十分か一時間の瞑想後、少しも変化がない人はいない。瞑想に慣れるにつれ、変化は明白となる。つまり、いろいろ識別できるようになる。何が良くて、何が間違いかを理解するようになる。最初は分からないが、このようにして魂が教えている。人間に独学させる。こうしているうちに、自我は魂と接触する。最初は波動を知覚するようになり、後に利用できるようになる。いわば、無敵の意味を霊的に理解しはじめる。

このような線に沿って安全に着実に進んでもらいたい。現状は、この段階にない人たちが、メンタル物質の操作を試みている。それはかなり無理がある。われわれの言う問題は、アストラル的なものである。個人的なものである。アストラル体が統御されたとき、個人の問題はなくなる。これが信じられるだろうか。個人的な苦痛は感じられなくなる。個人的な欲求もまたほとんど同様になくなる。アストラル界のフォースを明瞭に識別できるため、それが魂である人間をもはや捉えることはできないのである。霊的な野心もアストラル的なものである。これらから自由なときのみ、真実なる自己、真我は開示されうる。

最初に個人の問題がなくなり、次に魂の問題に移り変わる。それは魂のエネルギーと、個人のフォースのより精妙な衝突に関するものである。これが次の苦痛である。簡単に言えば、自我意識が苦痛なのである。普通はその意識で生きているが、その状態が耐えられなくなるのである。だから、自我は克服されるのである。人は何が苦痛であるかによって、目の前の課題を理解する。われわれの多くは遠くの課題を見ている。目の前の課題こそが最短を示していることを知るべきである。なにが問題なのか。そこに進歩の秘密が隠されているが、見ようとした人は歴史の中でもつねに少数だった。人類においては、つねに誘惑が勝利してきた。こうして今、世界はアストラル界の錯覚が席巻している。

読んだ方に受けた質問から

苦痛を一瞬でも消せれば……

消すのではなく、元からなかったことを知るのである。錯覚というものは存在していない。錯覚の主体つまり誤解釈の原因が理解され、正常にものごとを見ることができるようになるのである。

それはどのような見え方をするのか。

物質を見る肉眼の視力について言っているのではなくて、それはより感覚的なものだが、言葉にすれば見るという表現になる。フォース、生きているもの、動いているものを見るのである。感覚は静止していない。しかし見るとき、そこには何の動機もない。言葉にすれば難解だが、これは自動的なものである。だから、おそらくそれは状態に近いが、自我はそれを自我意志でできるようになる。なぜなら、この段階で自我と魂はそこそこ融合しているからである。

体験してないから本当の話か分からない。魔法とか超能力に近いのか。

瞑想から教えれば小学生にもできる内容である。大人は難しく考えることに慣れている。ここも障害になっている。瞑想が複雑を単純にする。百年後には小学生にも教える学校ができていなければならない。

そういうのが出来ることが分かったとして、どうやってやればいいのとなる。

動機は逃避である。こうして自我は外しか見ず、内を見ない。純粋な視力はただ見る。普通の人間が瞑想を続けるとき、純粋な人間になり、純粋に見ることができるようになる。瞑想は不純物を取り除く。だから、迷える自我には、正しい瞑想を続けるよう教え、鼓舞するよりほかにないだろう。やがて効果を感じ、自発的に瞑想を続けるようになり、その瞑想が個人的な欲望などに感染した邪悪なものでないならば、あとは自然に可能になる。

効果を感じたいから瞑想したいのではなく、宇宙とか人類のために瞑想するようになるのか。

そういう話をしているのではない。一般的なわれわれの問題とは個人の問題である。だから個人の問題さえなくなれば、個人は満足なのである。ここについて書いている。その後は魂の問題になるが、そのとき、人類とわれわれが呼ぶものはこのような不幸な状態にはない。

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