行為から観照へ

行為者は責任感覚を背負う。これにより人間は三界にて経験と苦楽を味わうことが可能になる。行為を観る者へと引き下がれば一切の不安、恐怖、苦痛から自由である。それは必然的に対をなす快楽や欲望や幸福といったものからの自由も意味する。自我は、個人を動かしている原因なき原因つまり神をもっと敬う知性に導かれる必要がある。唯一なる神が行為者であり源である。彼を通り越えて個人を所有するならば良きにつけ悪しきにつけカルマを始動させる。つまり解放を延期させる。彼と調和するならば大いなる我のうちに平和を見出す。これは観照者である無垢の意識としてただ在るということである。それはたえず行為を観ること、諸体の動きつまりフォースに気づいていることで、魂として低位人間を全的に統御するものである。これにより魂はトリアッド(アートマ-ブッディ-マナス)を通してモナドに反応できるようになり、個我の単位から自身である生命を全我へと移行させ、合一化の最初の偉大な達成である偏在へと自己を拡大する。

瞑想の進展は必ず日常にあらわれるし、またそうでなければ意味というものはない。瞑想は定期的な形式ではなく、生の全幅に渡る生き生きとした浸透である。なぜなら、オーバーソウルつまり一切の顕現の魂である総和と、人間の個別化した魂は分離していないからである。見習いの弟子が弟子となり、戦場がアストラル界からメンタル界に移行するとき、問題はグラマーではなくイリュージョンになる。あらゆるイリュージョンつまり未発達なマインドによる誤解釈という稚拙な反応の根本は、分離である。これは低位我に固執させる具体マインドを魂が統御し、低位人間つまり独立した個我を支配する立場に回るとき、はじめて統一の解消へと踏み出すことができるものである。

神は意志である。一般の人間はこの事実にまだ反応する必要がないが、進歩した弟子は反応しなければならず、真に偉大と呼ぶべき唯一なる意志に愛として参加しなければならない。何のため物質を通し霊つまり神が顕現していると考えるのか。それは偶然ではなく目的を持つ意志の結果である。この目的と「現行の」世界を照らし合わせるとき、あまりにもその栄光とはかけ離れた段階を人類は経験している最中であるという光景に直面する。いわば全員が真我に戻らねばならない。物質での経験を通し、長らく自分であった低位質料を引き上げふるさとへと帰らねばならない。質料つまりフォースに支配され、それらを自分と安易に決め込むのではなく、「割り当てられた」諸体のフォースを見て統御し、行為を神に返し、あまりにも悲しい限定された意識から自由になり、同じく限定されているすべての兄弟姉妹の自由へ向かって共に手を取り合うことである。

無知な者は自分のために悟ると思っている。自分が何かを知らないためである。小さな自我と霊的成長は何ら関係がない。それは相反する弧上にある。分かりやすい表現に甘んじるならば、自我意識を可能にする物質は退化の道にあるが、霊つまりモナドは進化の道にある。人間は、現状では退化の意志にねじ伏せられている。その動きを見て、動きに習熟し、動きを支配するようになるすべが、まさに瞑想である。なぜなら、瞑想を通して霊的なエネルギーはヘッド・センターへ降下流入するようになり、人間つまり魂にアジュナ・センターを通してフォースの統御を教えるからである。諸体が魂に掌握されるということは、自我としての行為者の感覚からも自由になるということである。行為を所有してはならない。なにものも占有してはならない。それは誰のものでもない。神のみが存在する。

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