行為者からの自由

分離した個人という行為者の感覚。これは根本的な闇である。長きにわたり、人間を支配するのはマインドである。マインドが支配されつつあるとき、人は、その特定の人としての行為感覚に苦痛を感じるようになるだろう。つまりマインドとの誤った同一化である。行為者はいない。行為者を主張するのは自我である。自我の行為感覚ではなく、行為を観る意識存在と同一化する識別力が必要である。これは絶え間のない識別であり、それを可能にするのは間違いを警告する苦痛である。我々は、苦痛に敏感にならなければならない。苦痛は避けるべきものではない。それは絶対的に教師である。

我々は、自分が行為をしていると考える。マインドを通した一切は洗脳の結果つまり錯覚だが、独立した一箇の個人という感覚、つまり誤った「私」という主張が知られるべき最大の錯覚である。実際は、世界に行為者はいない。いわば神が、それ自体のなかで「生き、動き、存在」しているだけである。この感覚が発達するためには、瞑想でマインドが静められている必要がある。その生きた瞑想が、我々が日常と呼ぶ世界を照らし続けるようになるのである。絶対に個人に戻ってはならない。自分を個人と思わせる思考に加担した途端に神は限定され、ここに究極的な苦痛が生まれることになる。もし個人ではなく、ただ観る者としてとどまるならば、我々はただちに自由である。

例えば、この文章を書いている肉体現象がある。その行為を私のものと主張し、自分が書いているという感覚に合わせて思考するならば、その瞬間に限定が生じ大変な苦痛にさらされることになるだろう。それは事実ではない。そう考えさせる思考や感覚の引力つまり誘惑に打ち勝つ無空の英知、この思考を超えた言葉ならぬ単純が私つまり我々である。どのような行為も所有してはならない。行為に所有者がいるという前提は打ち消されねばならない。我々は行為者ではないのである。特定の誰か、分離している個人ではないのである。

この最重要事項を伝えうるだろうか。これが思考やイメージに変換されたまま放置されること、つまり各々が自身の内部で確認ないしは探究しないことを私は恐れる。いかなる想像も我々とは無関係である。真我は思考ではない。真我はそのような有限ではない。真我とは我々のことである。どのような肉体の中にあろうが、またどのような歴史や名のもとにさらされていようが、それを信じているのは偽我だけである。思考は真我を個人に仕立て上げる。思考、この外へ向かう精神からの自由は、内へ向かう瞑想のみが教えうる。それは純然たる意識であり、真に素朴な存在である。思考という複雑ではなく、染まっていない意識と存在の強烈な単純である。

思考に波長を合わせるならば我々は眠りに落ちる。無知の彼方へ追いやられる。思考が現れても問題ない。それは生活に使用される。しかし用が済んだら思考なき眉間の中心に引き戻すこと。なぜなら我々が魂と呼ぶ意識存在は眉間に座しているからである。それは思考や精神の領域にはない。思考しなければ、すでにしてそれそのものである。しかし思考を統御し、真の自己へと眉間を通して引き戻す運動を引き起こすのも、それそのものなのである。「それ」は在るが、我々が知っているもの、既知なる一切の偽物からは孤立している。だからマインドを通した一切のものの否定へ導くのも「それ」である。「それ」は静寂の内奥にのみ出現しうる。我々が自我ならば騒音だが、瞑想を続けるならば静寂である。知られるべきことは、自我が瞑想するのではなく、すでに瞑想している内在の「それ」と波長を合わせることで、我々は瞑想に出会うということである。この歩み寄り、二が一に溶け合うさまが、我々の求めるものであり、自我と行為感覚からの自由である。

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