瞑想は終わらない

「瞑想を終える」と我々は言う。本当だろうか。瞑想する人がいて、三十分か一時間ほど瞑想をして、日常に戻ろうとする個人がいる。このような時代はやがて終わる。自我は真我に勝てない。我々は真我である。どうして瞑想を終えることができるだろうか。誰が日常に戻るというのだろうか。錯覚の時代、瞑想は真我へ至る手段である。しかし人の意識と感覚において内なる存在が覚醒を得て、優勢になり、やがて圧勝しはじめるとき、瞑想は終わらなくなる。瞑想を中断させる妨害者はいなくなる。自我は小声になる。自我は慎む者になる。生涯最良の喜びと共に真我に仕えるようになる。生は瞑想であり、私は真我であると100%の確信をもって言えるようになる。真我を有限体に閉じ込めることには限界がある。真我つまり無限は、輪廻つまり暗黒の苦しみを通し、もはや母である物質という子宮から飛び出し自由にならざるを得ない。子つまり魂は自由になる。そして、ありとあらゆるものの原因なき原因である父つまり真我そのものとなる。

自我が「私は真我である」と言うとき、彼はそれが嘘であることを知っている。言いながら、後ろめたさを感じている。どうして自我が、彼自身である精神を超越できるだろうか。強烈な充足が先である。爆発せんばかりのうずきが先である。この真我つまり生命は飽くなき意志である。終わらぬ巡礼の宴であり、尽きせぬ循環の愛である。だから瞑想は終わらない。

瞑想の門を叩くのは誰か。名を名乗る者は己を偽る者である。純白なる者、記憶の汚れを持たぬ者、時間の重荷を背負わぬ者は、軽々と門を越えるだろう。人間は持ちすぎている。生ける地縛霊である。物質への執着と肉体への愛着が強すぎるあまり、苦悶の声を押しつぶしながら、地べたへ這いつくばっている。しかし瞑想すると軽くなる。あらゆるものを瞑想が脱がす。あの北風と太陽の寓話のように、強引な自我瞑想は北風であり、それは抵抗の突風を煽るだけである。太陽つまり魂は自然の熱で溶かし脱がせる。残るのは霊つまり真我である。なにものにも縛られぬ無形無色、無名無痕の無限である。

瞑想はだから努力とは無関係である。自我は外へ向かって努力する。目的や終着点を抱えることで安心する。それが自我の生き甲斐になるから。したがって何も保有せぬことを自我はなし得ない。……この苦しみは覚えがある。ひたすら苦しいが、どうすれば良いか分からない。あらゆる瞑想を試すが失敗する。分かるまでが地獄である。その直前までが真っ暗である。徐々に闇を匍匐前進するが、方向性が合っているのか、本当に進んでいるのかは分からない。視界が開け、天上から光が差し込むのは突然である。すべての瞑想はここに報われる。すべての瞑想は真我へ導くものであった。無知は照らされ、およそ信じられない無限、つまり愛と喜びと至福が一切を覆い尽くす。だから、瞑想できることは真に恵まれた才能である。いかなる才能も上回る天分である。その力、その運命はどこから来るというだろうか。感謝し、我々は恩に報いなければならない。

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