解放について

一月ばかり前、中学時代の友達が死んだと知らせが入った。病気かと聞くと、アル中で自殺したということだった。きっと、あの頃のままの波動で生き、何の学びにも出会えず、また機会を受け入れることもできなかったのだろう。世の中からすれば無用な、役立たずな、嫌気のさす不良品のまま、酒に溺れ、そのまま迷惑なおっさんになり、己れではもはやどうすることもできなくなり、苦痛に耐えるくらいならもう死にたい、苦痛から解放されるためには肉体自らで肉体を殺さねばならないという決断が下されたのだろう。この時期の友達は、一人を除いて皆、改心したいという欲求に出会えず、不幸な死に方で去っている。一人は、私が改心したからそれに影響を受けて真面目になったが、神の道には入っていない。

真我つまり神我から外れた者は、捨て子である。どの聖人の本だったか忘れたが、その聖人もしくは聖人候補者は、どのような罰でも受ける覚悟はあるが、神を忘れるという罰だけは与えないでくだささいと祈ったと言う。当たり前だろう。神=我から切り離されて、どうしてそこに真の幸せがあるだろうか。神すなわち愛や知恵から切り離された者を、この世では馬鹿と呼ぶ。もしくはこの無知は、肉体人間を我と思うようになり、愚かにもこの世で幸せを求めるようになる。人間の目の玉が反転できないように、ずっと外ばかり見て、目眩ましの中、儚きものに溺れ、夢か幻か分からないような人生をなんとか束の間の幸せで耐えようとする。

私は、度重なる不幸は私が原因であることを理解しなければならなかった。トラブルメーカーであり、行くところに破壊がもたらされる。これが繰り返されると、反省やため息では済まされない。辛さのあまり心身が限界に達し、「この男は駄目だ」と諦めざるをえなくなる。それで友達と同じく私も自殺を志していたが、個人に対する諦めが強かったからか、人間意識の背後の意識に思いもよらず闖入した。馬鹿が知恵に入った。すると、馬鹿の解き方は自殺ではなく、馬鹿者からの自由であることを悟った。つまり、人々が「私」と呼んでいる者からの自由である。

目の玉は反転できずとも、意識は反転できる。私は内なる目で内側を探求し、つまり瞑想し、その瞑想学校でのみ、知恵を学んだ。読書家は知識は豊富だが実践的な知恵からは切り離されている。その読書する者から自由にならねばならないことをいずれ理解するだろう。瞑想で神の道を学び、神性の美しさをこれほどかというほど味わい、個人の意志ではなく神の意志――人間においては魂の意志と調和整列し、肉体人間から自由になり、この世に身を保ちながら天国人の国籍を得ねばならない。こうなると、前の質問者の方が言われたように、瞑想は「欠かせぬもの」になるだろう。言い換えると、個人の私は不要だが、神の私だけは欠かせぬようになるだろう。この世界だけが美しく、霊すなわち真我を忘れ、切り離されて分離した個人になるとき、辛く苦しくすべては不調和ゆえに醜悪となる。

簡単に言おう。抜け道がある。個人に生きれば、賢い者ほど自殺するか見出すかの壁にぶち当たる。馬鹿者は個人でもまだ生きれる。賢き者、つまり輪廻の臨終めいた時期に差し掛かるほど古き魂は、個人に耐えられるほどの力が残っていない。彼らは「諦め」を学ばされる。賢さが諦念を教え、「明け渡す技術」について学び始める。個人の宿命は必ず不幸だ。必ず悲劇、必ず苦悩である。なぜなのか。波動が神と一致していないからである。あの中学時代の友達は、反抗する子供のままだったゆえ、荒々しく如何ともしがたい波動に翻弄され、あの男らしく自ら喉を掻っ切った。抜け道を教えてやりたかったが、馬鹿者の特徴は聞く耳を持たないことである。素直さの欠如と頑迷固陋。しかしそれにも限界があろう。これを読んでいる小学生や中学生に特に言うが、真の学校は瞑想学校である。と言うならば、笑わずに聞いてくれる者が何人いるだろうか。なぜなら、自ら体験するまでは、誰も分からないからである。

通常の人間意識の者にとって、現実世界とはこの世のことであり、この世だけしかないと思っている。死んだらあの世があると言う者もいるが、生きている間はこの世だけが現実になる。じゃあ、この世で行き詰まり八方塞がりになるならば、およそ自殺しか解決手段はない。賢き者は、もうしばらく耐える。真の解放を見出すために、いまはひたすら袋小路で我慢する。そして瞑想学校で何が正しいのかを孤独に学ぶ。自らの波動を、上の波動と一致させるというこの世の極意を、誰からの理解も得られぬまま、一人で学び始める。そしてついに一致したとき、この世のヴェールは剥がれ落ち、古い私からは自由となり、真善美しか存在しない完璧な至福の領域に招かれるようになるだろう。全ての者が招かれているが、ほんのわずかな者しか選ばれない。いくらこの世で人格者を気取っていても、真に純粋、真に子供、真に無邪気でなければこの領域には入れない。そのとき、この世の者からすれば、むしろ我々が馬鹿に見えるだろう。また、道の途中で馬鹿にされもするだろう。見出すまでは我慢がいる。見出したとき、すべての我慢が溶かされ不要になるだろう。我々は神に溶け込み、人間の最高目的が何であったかを知り味わう。解放とは自殺ではなく、自我の死であり、私からの自由であり、真我顕現であり、神すなわち我である。そのとき、神の目的が少しずつ露わとなる。それはかなりオカルト的な、つまり秘教的なものであり、したがって顕現の世界の背後の世界で行われていることであり、よってすべての学んだ秘教徒や弟子は、この隠された世界つまり原因の世界で意識的かつ意図的に神の意志と目的に奉仕している。なぜなら、真我、神=我にあっては、それだけが喜びだからである。そして、それ以外はすべて苦痛である。ゆえに、苦痛とは神の良き教えであり、導いてくれる神の指針であり、決して悪いことではない。

質問者:苦痛は受け入れがたいものです。

マハラジ:どうしてかね。試したことがあるのかね。試してみなさい。そうすれば苦しみには快楽が生み出すことのできない喜びがあることを見出すだろう。なぜなら、苦痛の受容には快楽よりもはるかに深いところへあなたを導くという純然たる理由があるからだ。個人の自我はその本性からして絶えず快楽を求め、苦痛を避けている。このパターンの終焉が自我の終焉なのだ。……苦痛がひとつの教訓と警告としてあるがままに受け入れられ、注意をもって深く見入られたとき、苦痛と快楽という分離は打ち壊され、それらはともに、抵抗したとき苦しく、受け入れたとき快いという体験になるのだ。

ニサルガダッタ・マハラジ「I AM THAT」 p.296
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