私は10年ほど前から瞑想をしたり、しなかったりの時期を経て、ここ1年ほどは毎朝40分ほどの瞑想を続けております。静かで気持ちいいなスッキリするな〜という程度の瞑想ですが、もう毎日欠かせないものとなっています。最近、自分が“する”という瞑想だったのが、存在感を実感するという“在る”という感覚の瞑想になり、ますます瞑想が心地良くなってきました。そこで私の瞑想歴ではまだ時期尚早かもしれませんが、徐々にに毎日を24時間真我、24時間マインド無視の生活に寄せていきたいと思っております。現在の私は、子供の進路も目処がついて、専業主婦のため自由になる時間が多くあります。ここで質問がございます。瞑想しても変化はゆっくりしたものだから気晴らしもしてよいという672夜様の記事を以前に拝読したのですが、ドラマ鑑賞やX等のSNSを読むといった私の趣味をどう思われますでしょうか? 探求のためには、こういったマインドに刺激を与えるような趣味は控えたほうがよいのでしょうか? アルコールのように少量ならよしとか、観てもかまわないけれど、探求は遅れるよといったことはやはりあるのでしょうか…
私には小学校からの親友がいるのですが、彼女は海外に居り、Netflixなどで観たドラマの感想等を伝え合うのが楽しみなのです。こういったことにまだ楽しみを得ているということは苦しみが足りず、探求に真剣に向き合えていないということになりますでしょうか? またドラマ鑑賞中やX等の投稿を読んでいる時間も、反応に気付き続けたり、“在る”という感覚を保ち続けることは可能なのでしょうか?
「ドラマ鑑賞やX等のSNSを読むといった私の趣味」は初期段階ではほとんど問題にならない。「24時間真我、24時間マインド無視の生活」のためにあなたに起きることは、そのような趣味が、かなり耐えられない苦痛と感じるようになるということだ。それは融合と両立できないため、いわば、魂と融合を追いやりながら、無理矢理に個人を演じるという気の観点からは狂った同一化に隷従しなければならないため、「毎日欠かせない静かで気持ちいい」感覚とは真逆の苦しみを味わうようになる。このようにして、波動を落とせなくなるのでる。魂と一致しているときだけ自然であり、それは高位の霊的な心地よさが永続され、あなたのような個人を”着ている中の人”として、あなたという個人は識閾下に落ち、無関係かつ無関心の対象でしかなくなる。こうして、苦痛があるときは態度が間違っており、瞑想の心地よさが続いている限りは正しい態度であることに個人は承諾せざるをえなくなる。
あなたは、「マインドに刺激を与えるような趣味」と言うよりも、情緒つまりアストラル的に刺激を与える趣味と同一化する習慣があり、これは瞑想を続けることで徐々に不可能になるだろう。天国からあえて地獄に落ちたいとは思わなくなるだろう。
とはいえ、「24時間真我、24時間マインド無視の生活に寄せていきたい」という欲求が芽生えることの、何と素晴らしきことか。またこのような声を聞けることのなんと嬉しきことか。それは、瞑想の悦びを知った者にしか言えないことである。したがって漸進的に正しい方向へと向かうであろうし、これからも霊的な浮き沈みはあろうが、螺旋的に高みへと上昇するだろう。油断するといくつかの生涯を無駄にすることになるため、ひとつの基準を忘れないようにすべきである。それは無害であるということだ。Xを眺めたり、Netflixなどで観たドラマの感想等を伝え合ったありするにしても、分離して、批判的になったり、その背後に嫉妬や怒りがあったり、何にせよ一ミリでも「裁く」という姿勢を誰かや何かに向けないよう努力しなければならない。それは日常でも同じであり、何が起きてもそこに神つまり唯一なる真我における完全性を見なければならない。このように知的かつ無害であることで、あなたは霊的な脱落の危険から免れ、平均的な探求者よりも遥かに急速に進歩するだろう。これができる探求者は稀である。そうすべきだと完全に理解した探求者も稀である。
瞑想は何ゆえにかくも心地よいのか。意識があなたではなく真我に向かうからである。よってあなたはいかなる活動においても、「自分が“する”という」感覚がなくなるほど、真我にとどまっていなければならない。するといつであれ天国であり、すべては美しい。その意識や領域から出て、個人として活動するならば、これは耐え難い苦痛である。そのようになるだろう。徐々に真我以外、つまり偽物には耐えられなくなるだろう。そして、耐える必要がないことに気づくだろう。あえて個人に戻る必要がなかったこと、この簡単なことになぜ今まで気づかなかったかと驚くだろう。可能なかぎり、真我の意識に入っていればいい。これだけが答えだ。これだけが人間の目標だ。あらゆる快楽や趣味は徐々に乗り越えられ、また睡眠時の夢にすら耐えられなくなり、真我に没頭する時間が長くなるだろう。
「こういったことにまだ楽しみを得ているということは苦しみが足りず、探求に真剣に向き合えていないということになりますでしょうか?」。瞑想に熟練するにつれ、(困ったことに)、苦しすぎるようになるだろう。真我は、無理矢理、あなたを人間に戻らせない力で引っ張るようになり、あなたは困るだろう。趣味の時間くらいほしいと願うが、許されないだろう。破壊神の到来である。彼に従えば至福だが、彼に逆らい個人を維持しようとするなら災難である。また、探求に真剣に向き合えていないという想念は無視すべきである。それは個人の情緒的な想念でしかなく、あなたを真我から逸らすだけの無価値な想念である。無視して、心地よさにとどまり、そこに無限の知恵と力と愛があることに喜ばねばならない。その代わり、個人は諦めねばならない。
それほど過酷でも忙しくもない人生を送らずに済む時間が与えられていながら、その僥倖を真我探求に向けようとする態度は素晴らしいが、同時に、ゆっくりとしか進歩しないのも事実であるゆえ、おのれにも決して批判的になることなく、そのようなものであることを知りつつ、可能なときにその心地よさにとどまり、融合を深めるべきである。そうすることで、「ドラマ鑑賞中やX等の投稿を読んでいる時間も、反応に気付き続けたり、“在る”という感覚を保ち続けることは可能」になる。それはあなたとは無関係な話になる。個人の夢物語は続くだろうが、あなたはそれらから自由になり、自分が行為しているという錯覚や感覚からは自由になる。「自分」は肉体でも肉体の行為でもなくなり、それらは融合したあなたからは完全に関係のないものになるだろう。あなたを「着ている」のは誰なのか。瞑想の心地よさの奥にその答えがある。したがって、瞑想の心地よさは我々の態度や行動をはかる指針であり、真我の心地よさにとどまるとき、常にそれは正解である。
朝の瞑想で達成した高い調子にできるだけ近い意識を毎日一日中毎時間維持するように試みるべきである。自分自身を、分離したパーソナリティーではなく、魂と考えようと決意することが前提である。後に魂がもっと支配力を握るようになったとき、グループのためにならない関心、欲求、目的、願望を全く抱かずに、自分自身をグループの一部と見なす能力も必要になるだろう。また、低位の波動への逆戻りを防ぐために、一日のあらゆる時間、絶えず注意を払うことも必要である。引き摺り下ろそうとする低位我と絶えず戦わなければならない。高位の波動を維持するための絶え間ない戦いである。そして、これはあなた方に印象づけたいと思っている点であるが、目指すべきものは、一日中瞑想する習慣を発達させ、高位の意識をもって生活し、この意識を安定させることである。その結果、低位マインド、欲求、肉体エレメンタルは養分の欠如によって萎縮して飢え死にし、三重の低位性質は魂が人類の救済のために世界に接触するための単なる道具になる。
ジュワル・クール「秘教瞑想に関する手紙」 p.175
