「八方塞がりである。どうすれば良いか分からない。わたしは正しく前進しているのだろうか。間違ったやり方に再び陥ってはいないだろうか。何も見えない。わたしは目の前の問題に圧倒されている」
これが、前進中の弟子の言葉である。暗中模索。もう自分にできるとは思えない。しかし前進するより他にない。苦痛は拠り所である。それは何らかの間違いを警告してくれる上、それそのものを見ることで答えを教えてくれる。つまり、自身のどのような態度が苦痛の原因であり、何を求めたがゆえの摩擦であり苦痛であるかを教えてくれる。その態度を正すことで、求められる波長に再び自身を調整することができる。
この世界では、独学における小さな理解、小さな意識拡大でさえも大きなものである。なぜなら、漸進的な小さな成長が積み重ねられたとき、あるとき突然、大きな達成、大きな意識拡大へと導かれるからである。そして弟子は、見えるようになった目を通して新たな意識の中でつぶやく。「なるほど」と。これが毎回のパターンであることを弟子は覚えておくべきである。みな、暗闇の中で前進している。初心者だけが、自分だけだと思うことで酔っている。加えて、干満の法則つまり周期の法則の中にわれわれは生きていることを知らねばならない。達成のあとには奈落があり、再び見えなくなり、できなくなり、見捨てられたかのような時期が訪れる。これも皆である。そしていずれは学ばねばならない。
眼と破壊
現在の進化段階に分不相応な到達を求めてはならない。進化段階を突き止める最大のメリットの一つは、目の前の目標を理解できる点にある。アリス・ベイリーとベンジャミン・クレームの本を研究するならば、自身の段階を謙虚に見定めることができるようになるだろう。自分の今の戦場がアストラル界なのか、メンタル界なのか、そしてどの亜界であり、どのような形態を破壊するために苦心しているのか、突き止められねばならない。
形態の破壊にすべての進化の秘密が隠されている。これを分かりきったことと考えてはならない。絶えず適用することで、そうであることがあなた方にも分かるであろう。
ホワイトマジック下 p.69
どの界層、どの亜界にも、それ相応の「眼」というものがある。とつぜん、見えるようになるのである。瞑想をする者はこのことをよく心得ているはずである。それは、同一化から離れたことを意味している。「眼」は、言い換えれば意識である。それまで飲まれていた低位のフォースや形態に関する視力が生まれ、まさにその「眼」、見るということで統御できるようになる。後に、エネルギーを投射することで知的に形態を破壊することが次々にできるようになる。
安定へ
見習いの弟子における最初期の特徴は、十分に安定した努力を行うことができないというものである。なぜだろうか。アストラル的には、すぐに悲観、意気消沈、苦しみ、諦め、自暴自棄、自己嫌悪、自己憐憫といった役を演じることを好むからである。また、自らのアストラル体を満足させるための定期的な逃避、個人的な趣味や娯楽といったもので自らの騒音を満足させようとする傾向を捨てきれないためである。娯楽によるリフレッシュは賢明に活用される必要はまだあるだろうが、多くの場合、賢明さを欠いていることをわれわれは知っている。
情緒性質の統御は、第二イニシエーションと関係している。このような情緒的な惑わしから自由である第二段階以降のイニシエートが、いかにそれまでよりも急速に成長できるかが理解されるはずである。このような個人の反応と一切関わらなくなるからである。彼らは、情緒が真我である自身と何も関係がないという感覚を育てたのである。第三イニシエーションまでに個人のあらゆる主張や要求はなくなっておらねばならず、生活と意識全体が惑わしではなく、感知できる霊性へと没入されていなければならない。言い換えれば、魂が個人を統御していなければならない。
初期段階の弟子の目標は安定である。一つずつ、目の前の障害を破壊することによる自信が必要である。それが霊への確信となり、実際の接触へとつながる。まだ世界は現実のように見えるだろうが、やがて何が本当の実在であるかを知るだろう。それによって、揺るがなくなるだろう。暗闇はみな同じである。そしてみな、ヒントを頼りに独力で切り抜けるものである。闇に対する低位人間の反応を熟練の貫禄で封じ込め、何をすべきか分かっているならば、信じて、努力すべきである。