二元超えて愛

瞑想し、真我を探究しつつ、われわれは他人を必要としている。関わり合いの中に何かしら「生」を実感している。もし、われわれの物語が、”わたしのみ”で構成されるならば、そこには何のドラマもなく、分離した自我は困るのである。いわば、主演欲求が満たされないのである。孤独すら、他人あってのものである。われわれは、自分の周りを世界や星々が回っていなければ気が済まない。言いたいことは、一切の相互賦活的な関わり合いから外れよ、ということである。これは、思いやりや助け合いといった同胞精神を否定しているのでもなければ、森の静寂に孤独を求めることを推奨しているわけでもない。他人や他人を含む出来事を源とする影響力から孤立することで、「わたし」という主演感覚の持続性を断ち切り、そのときに訪れうる愛と静寂を架け橋に、一なる全体に喜びをもって息を吹き返すことを願うものである。

実際的には、影響力である周囲のフォースから自由でなければならない。夫がいつも苛々しているとしよう。すると、自分まで苛々するかもしれない。友人が悲しみのあまり号泣しているとしよう。するともらい泣きしてしまうかもしれない。このような波長の一致、つまり無防備なフォースの侵入を許してはならない。意識が連続的であり、気づきの知覚が毎瞬の守護を機能させるならば、われわれが「感染」することはない。称揚されたり、嘲弄されたり、異性から誘惑されたり、暴漢に殴られたり、犬に懐かれたり、娘に死なれたりしても、「関係ない」と言えなければならない。他人を無視するのではなく、自身の分離した反応を無視する能力が大切なのである。これを理解することは難しいかもしれないが、われわれが神と呼ぶ愛はそのようにしておられ、またわれわれが仏と呼ぶ知恵もそのようにしておられる。

われわれが「魂」なる孤高の監視者に吸収されるとき、その度合に応じて、人格性が消失する。それまで内的とされたものであれ、外的とされた世界であれ、何とも「関係がない」という感覚が芽生えだす。もしくは、「どうでもいい」という知性が芽生えだす。というのも、真のわれわれは、まったく二元ではないため、関係性というものから無縁だからである。すべてが我であるというこの感覚が愛である。二元がないとき、何もする必要がないのである。誰がするのだろうか。誰に、何にするのだろうか。この理解が瞑想である。この超然が至福である。われわれは一なる存在に安らぐ。この絶対意識は終焉である。二元の破壊が真我である。この美しさ、耐えられないほどの愛は、とうてい描写のしようがない。しかしながら、意味は伝わるのではないかと思うのである。

だから、他人などいないことを知っていただきたいのである。そのような愛にハートで吸収されていただきたいのである。分離を終わらせることで、ただ存在するという全我の至福へ戻っていただきたいのである。「どのようにして」と言わせる分離的な主演願望を無視し、どのような情緒も想念も、ただ二元の惑わしゆえに苦痛であることを知り、それらが本当に知られ、もしくはそのようにして魂の統御下に置かれたとき、亜界から亜界へ意識は上昇し、阻んできた自作の形態は破壊され、静けさという明晰さが一切の二元異物を識別し、われわれがすでに愛であり至福である完全無欠のわれわれへと、つねにわれわれであったわれわれへと、われわれはおのれを還元するのである。

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