人間の勝利

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宗教の敗北

歴史における真の教師方は「唯一なる存在」について語ってきた。どの教師のもとでも、理解する者は少なく、大多数が限定された人間の意識から解釈せざるをえなかった。教えは曲解され、宗教が組織化され、権威を貪る者に利用され、聖典は都合に応じて改竄され、教義は愛ではなく恐怖となり、宗徒は自己の研鑽より教えを広めることに従事するよう洗脳され、互いに対立し合うことで本来の教えから遠ざかり、時代の教師方に敵対してきた兄弟方の思惑通りにことが進んでいる。つまり教えの核心が敗北しており、勝利者はだれかと言えば、この私たちである。つまり物質である。教師方は人間が物質ではないことを教えてきた。現在の私たちは肉体を自分と見なし生きている。情緒や想念も物質であるため、その集合体であるアストラル体やメンタル体といったものを同時に自分のものとして生きている。その結果が統一的な自我意識である。それは分離の世界を映し出す。一なる愛を誰も知らない世界である。喜びではなく悲しみ、至福ではなく苦しみが世界を貫いている。このような敗北状態にいま私たちはある。

対立・闘い

第一様相第二様相第三様相
霊(Spirit)魂(Soul)肉体(Body)
生命意識形態
真我高位我低位我(自我)

教師方は第一様相を体現し第一様相について教えた(このような主題について短く語る場合は言語の限界を割り切る必要がある)。この世界の最初の「対立」は、第一様相を通して顕現している普遍的存在と、第三様相を通して自己を表現するエーテル的な質料との間にあった。現在もなお、この外的な象徴が至るところで見られるが、すべての闘いや衝突の本質は第一様相と第三様相の不調和にある。この争いが収束するのは、第三様相が第二様相を通して第一様相と調和するときである。三が二になり一になるときである。

瞑想における類似解釈

解脱や悟りは、第三様相と第一様相の不調和が解消されたことを示す概念である。輪廻転生は、第一様相が劫期にわたり第三様相を通して顕現し、経験と知識を蓄え、のちに瞑想を通し合一した第三様相と第二様相を通して、最終的にすべてを第一様相へと引き上げる過程について述べられるときの概念である。したがって、第一様相は質料の「霊化」に携わるものである。それは物質から意識へと、そして形態から生命へと、人間が関与する三諸体つまり三界の質料を導く旅である。

いま、第一様相である私たちは、第三様相を自分であると思っている。ここに対立の苦しみが生じている。ある段階で、人間は形態へ閉じ込められている感覚を漠然と苦痛を通して認識し、提示されている何らかの霊的理想に反応するようになり、こうして瞑想が開始される。したがって人間の瞑想は、第二様相(魂など)との接触を可能にするものであり、その第二様相による第三様相(現在の私たち)の霊化を通した不調和の解消つまり合一が最初の目標となる。つまり、自分と見なしてきた肉体、アストラル体、メンタル体の質料を、第二様相を通して浄める意識的な手段が瞑想である。

瞑想による質料つまり自身の霊化

瞑想で私たちは意識の変化を少なからず感じる。それは、瞑想がアストラル界とメンタル界の低位波動を安定させる作用を持つからである。熟練した瞑想者は、これを意識的に行っている。まず、私たちは三つの体、つまり肉体、アストラル体、メンタル体と同一化することで自我意識を保っている。それぞれの体は、七つの等級の質料で構成されている。平均的な魂は、メンタル界における三番目の等級の質料で構成されており、コーザル体と呼ばれている。つまり第二様相である。したがって、人が最下位にある第七亜界から第四亜界までの質料のほとんどを霊化したとき、必然的に脳意識で魂との接触を知覚できるようになっているはずである。第三亜界そして第二亜界の質料のある割合が霊化されたとき、私たちは魂と合一する。このとき、第一様相(モナド)が啓示され認識されるようになり、急速に最終的な合一へと、二が一になる終焉へと瞑想することが可能になる。七つの界層図が知識をもたらすだろう。

重要なことは、最初は魂もしくは魂の波動との接触である。このとき初めて、エネルギーとフォースを識別できるようになるだろう。瞑想者は、自身がもはやフォースではないことを知っているため、エネルギーがフォースつまり質料を霊化しゆくさまを見るだけになる。一般的な瞑想は、フォースがフォースと衝突しているだけであり、危険かつ無意味である。例えば、思考を抑えようと思考が考えるだけである。

真の瞑想では何もすることはない。真我(第一様相)が、最初は魂(第二様相)を通して私たち人間(第三様相)を支配しにかかる。私たちは、抵抗しているだけであることを知る。偉大なる第二様相に触れ、それがアートマンつまり自己であることを知り、それまで自分と思われた形態質料に対して認識はしても関与はしなくなったとき、それらはブラフマンつまり真我によって霊化される。このような瞑想が意識的な瞑想であり、言語や知識や概念を用いて為される一切の瞑想は物質の抵抗と同一化するだけの、瞑想を理解していないことによる妨害活動となる。行為は神聖なる無為に取って代わられなければならない。私たちが「自分」ではなく、第二様相で在るとき、すべては自然に、そして即時に解消され、変容され、霊化されるものである。私たちは何かをする側ではなく、される側であったことを知るだろう。それが瞑想であり、真の人間の勝利である。

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