一に許す

意識が魂の痕跡であり、存在するという感覚が生命つまり真我の痕跡である。静かなとき、魂は喜びと愛に生き生きとした感覚が顕著であり、モナドつまり真我は至福、静けさ、厳かさとして充溢し遍満している。そのとき、我々に注文はない。ただ存在である。低位人間の情緒や思考、マインド性質は取りつく島もなく、存在が存在そのものに安らいでいる。それは自然の豊穣である。尽きることなき無限の美である。求められたとき、それは見つからないかもしれない。結果を求める精神は、性質的に錯覚である。あるがままに見られるものの放棄。実在とは無関係の形態つまり外へ向かう無統御な奔放よって、真なるものを閉ざし、あらゆる固定的な、観念的な修練を苦痛と徒労に終わらせる。「それ」は在る。人間は、自身の騒々しさではなく、自身「が」騒々しさであることを知るだけである。二ではなく、一であることを受け入れる感応力が必要である。

我々は、私の感情、私の欲求、私の目標、私の思考、などと分離して見る。実際は、ここに区別はない。それらは我々そのものである。区別して見るとき、対象は所有物ないしは敵対物となる。この錯覚が第一に視力を奪っている。「私」として見ず、「何か」として他所に見ている。想念と観念の世界は、「私とその他」という態度ですべてを敵に回す。丁寧に見るならば、こうした対立はないのである。例えば「私の苦痛」と言うとき、その二元思考の錯覚により苦痛は見えず、「私が苦痛そのものである」と認めるとき、二は一の中で解消されるのである。

一事が万事、この二元の錯覚が元凶である。すべては「私」の中で一にならねばならない。一のみが平和である。一のみが愛である。そして一のみが無限である。

求めるとき、それは二元である。探すとき、それは二元である。二を一へ還元するとき、我々は真我である。何もする必要がないとき存在である。ただ、「二」がないことを知りさえすれば、二を一に受け入れ、一つまり私の中に入っていくことを許しさえすれば、我々は霊的な意味で落ち着く。我々が平和であることを知ったとき、一であることを知ったとき、そこでは何もないだろう。二元だけが、することを探し、あちこちに対立や獲得や恐れを見るだろう。

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