成長と助力

前の記事で不正確つまり不用意な発言があったため幾らか削除した。それらの意図は、前線に茫漠と広がる難易度に対する消極的な諦めの打破であった。また、神秘的な体験が強調されるあまり、自我の新たな欲望へと堕落しがちであり、現実的な目標ではなく、霊的野心の体験へ向けられた欲求と想念の私的な形態が瞑想を妨害し、自身を危険にさらしていることを示すことにあった。しかし正確に言うならば、確かに、自我意識の見地からは超越的な体験つまり意識状態はあるだろう。また、細分化するならば条件つまり前提もあるだろう。我々が恐れるのは、そのような条件の難易度に恐れを為す精神である。と同時に、そのような体験に心奪われた結果である長時間の瞑想や学習、とりわけ呼吸法や短期間での火の目覚めといった無知で欲望的な態度が引き起こす諸体への過度の緊張による自分自身への取り返しのつかない損傷である。正しく純粋な動機のなか、おのれと兄弟姉妹に誠実な弟子であるならば、必要な条件は達成され安全に乗り越えられるはずである。大事なことは、目の前の課題ではなかろうか。そして、それが何であるかの認識である。我々にとって本当に直面すべき課題は何であろうか。悟りであろうか。それとも日常での愛と思いやりであろうか。一つひとつに正直で誠実であるとき、内であれ外であれ偉大な教師が現れ、乗り越えられない段階への刺激的な導きが与えられる。小さな達成と日々の忍耐、そして調整された持続的な努力が、自我意識である人間を大いなる真我の高みに引き上げるのである。

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グル・教師・名づけえぬ存在方

弟子はいつか、想像を絶する存在を前方に認めることになるかもしれない。それは知識によってではなく、彼らに実際に内的な援助を受けるようになり、オーバーシャドーされることによってである。つまり、我々が魂との整列を成し遂げるようになったとき、秘教徒やインドの聖者方が主張するような偉大な内界の教師による援助を受けることが可能になるかもしれない。それは、助力への懇願という汚い動機からではなく、何年にも渡る我々の着実で純粋な努力と奉仕がその位置まで波動を高めさせ、しばしばハイラーキーと呼ばれる彼らの注目という波長と一致することが可能になった結果である。事実は、内なる魂と彼らの援助なしには何事も為し得ない。自我そのものは無能である。自我は、「私」という行為感覚がある限りにおいて、自身つまり肉体・アストラル体・メンタル体を浄化征服し静めることに努め、並行して愛ある生活と何らかの外的活動に従事することで自身から賢明に注目を逸らし、魂と彼らの助力が低位人間を変容させるのを見るだけである。

私は強調して繰り返す。低位三諸体の整列を果たした時にだけ、大師は弟子の諸体に働きかけることができる。

秘教瞑想に関する手紙 p.320
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