アストラル体の扱い方

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アストラル界の自覚

人類は欲求(良い欲求、利己的な欲求、間違った欲求、霊的な欲求)に条件づけられている。

アリス・ベイリー「秘教治療 上」 p.214

我々の一般的な課題はアストラル体にある。この人類を大掛かりに幻惑する界層から自由を得るまでは、あらゆる感情や欲求には現実感が伴い、我々を支配し動かす。この感覚体もしくは欲求体が静かである状態を我々は知らない。その豊かな静謐がもたらす報酬が強調されることは少なく、むしろ我々はアストラル・フォースそのものである霊的欲望の犠牲になることを選択している。そして望まれる達成がない場合、霊的な挫折を巡って自転する苦悩や悲観や敗北感といったアストラル・フォースに拘束される。この状態で想念つまりメンタル・フォースを統御することは不可能であり、霊的な全ての目標はアストラル体に生きている自分にとっての利己的な野心にとどまる。そのため瞑想し統御を学ぶのである。

犠牲と血

瞑想者において、一切の情緒や欲求は供物となる。なぜなら、アストラル界の低位質料を霊化し、少なくとも低位四亜界を浄化し、第三亜界の物質を一定の割合組み込んでいなければ、いくつかの高位の波動には感応できず、脳で知覚する現実にはならないからである。誰しもが何らかの欲求に負けている。幾年月にもわたる習慣的な欲求のフォースは特に強力であり、よほど高位のものへの確信があるか、特定の理想や美徳に対する熱烈な意志がないかぎり、大いなる流血を自身に行使することはできない。しかし、それをやるのである。血を流した時だけ、道の前方にいる全ての兄者方が辿った血の行路を目撃することができ、孤独の中で決然とここを通った先人の証を認知することができる。そして、流血と同時に報酬が与えられたことを知り、血の道が確信に変わり、より容易に血を流すことが可能になり、やがて血は流れなくなる。

犠牲とは幸福を意味し、欲求を「神聖に」する喜びに満ちた過程を意味するというアイディアを欠いている。アストラル界に閉じ込められたエネルギーを別の界層での「啓発された」奉仕に解き放つということは理解されていない。

アリス・ベイリー新時代の弟子道6」 p.196

変性のテクニック

最初の高位の波動、つまり瞑想者は魂と接触し魂の波動を活用することを学ぶ。このとき初めて意識的な前進が可能になる。つまり、エネルギーとフォースの関係性を知り、どちらの側に立つかで(前者はいわば白魔術、後者は黒魔術)、自身の意識にどのような影響を与えることができるかを理解する。

低位のエネルギーを引きつける過程、それらを太陽叢に集中させる方法、そして、そこでそれらを変性し、ハート・センターへの移行が可能になる点にまでそれらを精製する方法についてここで述べる意図は私にはない。この多くが、第二イニシエーションに先駆けて、受け入れられた弟子たちに与えられる訓練に関係している。それは、その過程を行う準備ができていない人々にとっては、議論するにはあまりにも複雑な問題であり、またいくつかの特異な危険をもたらす。

アリス・ベイリー「秘教治療 上」p.214

「受け入れられた弟子」でなくてもこれは可能であるから書いている。ジュワル・クール覚者は、より厳し目に言うことによる効果をアリス・ベイリーを通した書物では重視されている。それは第一には我々の安全のためである。しかし、その厳し目の条件を満たしていない状態で達成することがあることを我々はしばしば経験する。その場合には次の点が考慮されねばならない。つまり、時期尚早な発達つまり危険の兆候ではないか、というものである。間違っても、自分は進歩しているなどと自我で解釈してはならない。しかし短文を宿命づけられているブログでは赤色の文字の内容を考えることが先決である。

「低位のエネルギー」つまりここではアストラル体に色づけられた後の何らかの形態つまり個人的なアストラル・フォースのことである。それは悟りへの欲望であるかもしれず、誰かへの憎しみ、何かへの愛着、現実的なものへの恐れであるかもしれない。すべては形態である。そして「形態の破壊に全ての進化の鍵がある」というのは決まり文句である。形態を破壊し、フォースつまり質料を変性させるのはエネルギーである。その手順がアストラル界においては太陽叢のチャクラを通してハートのチャクラへ引き上げるという過程である。

具体例

情緒的なエネルギーは太陽叢センターを経由してパーソナリティーへと入る。太陽叢センターにおいて情緒的なエネルギーがパーソナリティーを統御したり、変性され昇化されたりする。

アリス・ベイリー「光線とイニシエーション 下」 p.18

専門的な知識がなく、何も感じられない場合。これは不確かだが言語で到達を試みることになる。「情緒的なエネルギー」が誰かへの嫉妬であるとしよう。嫉妬している感覚を捉えたならば、それが”みぞおち”の辺りに感じられるはずである。その感覚を眉間の位置から、何の批判も評価も意図もなく、ただ離れて見るのである。この無執着な目は、擬似的な魂の目であり、観照者の力を呼び起こすものである。目は、同一化から離れて意識的に見ることで、自動的にそれをより高位のものへと変性する。見たとき、嫉妬はなくなったことを知るだろう。多くが浄化されたアストラル体で感じられるのはハートにおける自由と喜びと愛である。なぜなら、そのときアストラル体はブッディ意識を映し出す澄んだ鏡になるからである。

以上が、アストラル・フォースを識別し、アジュナ・センターから魂のエネルギーで接触し、捉え、太陽叢センターを介してハート・センターへと引き上げ変性する過程を簡単に言語で示したものである。これは一瞬で行われる過程であり、時間を要する場合は失敗している。つまりパーソナリティーの嫉妬に対する何らかの反応に阻害されている。それは何なのか。ふたたび感覚を探る。無執着に見る。なぜなら、それは存在しているのだから、存在そのものに善悪はないからである。この意識に立つときすべてを無執着に見ることができ、対象を変性したり、理解したり、自らを形態から解放したり、自分がもはや犠牲者ではなく支配者であるという生得の事実を知る立場に至るのである。

最後に

すべての問題は、感覚を見ようとしないことである。その欲望や感情に負けているのである。つまりそれらフォースに感染しており、欲望や感情そのものになっているのである。しかし、それらは全く真我である我々と関係がない。変性と浄化の訓練が瞑想と日常を通して繰り返し行われた場合、やがて我々はアストラル・フォースにむしろ感応できなくなる。つまり自由になる。例えば多くの人にとっての苦痛はアストラル・フォースのことを意味しているため、苦痛を感じる能力も失われる。これは人類には理解しがたいことだが事実である。個人的な苦痛はなくなる。そして、今まで自分を捉えてきた感覚すべてと関係がないことを理解し、内的に魂として孤立できるようになる。この静けさが、次に瞑想にてメンタル・フォースを扱うときの基礎になるのである。そして低位マインドを統御し終えたとき、大いなる存在方の助力により、我々は三界を超越する。

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