難しい瞑想

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瞑想を阻む要因

瞑想方法が分からないという挫かれた理想への苦渋に満ちた反応は次のことを意味している。

  1. 動機が自我の欲望であるため、波長を合わせているのは自身が描いている欲望に対してである。リアリティーと自身の欲望の区別がつかない状態。
  2. 結果として、自我が脳に対して無意味な負荷をかける。その象徴的な態度が努力や真剣さである。実際のところ、努力とはエネルギーの知的な方向づけであり、真剣さとは確信と知恵がもたらす自然の集中である。それらを表す言葉はリラックスである。
  3. 自我の瞑想は、このリラックスの対極にあり、欲求の獲得のための騒音を生み出し続ける。これがアストラル性質や低位メンタル性質の暴走につながり、結果として魂を脳意識で認識することがない。
  4. 魂を認識できないため、パーソナリティーの協力のもと、魂とマインドで行われる瞑想について理解できない。

欲求の除去

以上から、瞑想ができない原因の大半が、アストラル性質の問題であることが理解されると思う。もっと言えば、アストラル体が静かでないため、メンタル体が機能せず、必然的にアンターカラナの前半が構築されず、個人と魂との間に認識の橋が築かれないのである。

欲望だけではない。悲観的な情緒も同様である。早すぎる諦め。自己憐憫と落胆。自身の能力や進化段階への疑い。これらの必然である苦痛。霊的な自暴自棄。特別な者だけが達成するという確信への逃避と怠慢。これらのドラマに主演しているときは辛いだろうが、しばらく瞑想すれば劇団員からは自主的に解雇されるだろう。なぜなら、瞑想者は次のようにして統御し始めるからである。

弟子は欲求を取り除こうという気持ちで欲求と積極的に戦うのではない。弟子は欲求を(見習いの弟子が行うように)変性しようとするのではなく、欲求にどのような関心を払うこともやめる。弟子は注目という必要な刺激を欲求に供給しなくなる。というのは、エネルギーは思考に従うからである。弟子は世界の必要、自分ができる奉仕に専念し、(言うなれば、ほとんど気づかないうちに)欲求は摩擦によって死滅する。

アリス・ベイリー「光線とイニシエーション上」 p.267

無関係

欲求や情緒に対しては、見習いの段階では自我が概念を用いて変性の努力を行うが、後に弟子はエネルギーとフォースの観点から秘教的な変性を見出す。低位フォースにエネルギーを照射するのである。しかし最終的には、(変性と浄化と征服の総和として)真我の感覚が強くなり、真我である自己とはすべてが純粋に無関係であるという事実感覚により、三界への関心を失くす。だから「気づかないうちに」死滅していることになる。低位マインドつまり思考や精神の動きを統御する際にも同じテクニックが使用されることになるだろう。ただし、この場合は「固定先」が見つかるため、通常は意識的な対象への集中(それは人々が教える自我の集中ではない)、チャンネルの切替という知覚特権を用いるかたちでコーザル体への偏極を自然にし、これにより低位性質からの超越を得る。しかし現実問題、一般の瞑想を阻んでいるのは瞑想者の肉体を動かしている情緒的なフォースである。この事実を認め、内に見てもらわないかぎりは、永遠に瞑想は進まない。

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