「魂は、性質上、グループ意識であり、個人的な野心や個人的な関心はなく、パーソナリティーの目的には一切興味がない。イニシエートとは魂である。イニシエーションは、パーソナリティー内の霊的人間が、魂の能力、魂の関係、魂の目的と共に、自らが魂であることに気づく過程である。人間がわずかであれこれを認識した瞬間、彼が意識するのはグループである」とイニシエートは語っている。ここで述べられているイニシエートもしくはイニシエーションは、最初のいくつかのイニシエーションに関するものであり、それほど重要な概念ではないが、しかしそれは人間が目標とするものを表そうとする概念である。
今回の記事で、私は魂の認識、つまり魂意識への参入が、人間にとっていかに助けになるものであるか、またなにゆえ人間が(自身である)魂を認識できないのかについて考えてみたい。
魂がいかに人を救いうるか
人間の問題は分離に由来しいている。ここに反論の余地はない。魂の認識は、個人との関係性を断ち切る。それまでの自分と新しい自分が、何の関係もないことを理解させる。この新しい意識が示すのは、分離感ではなく、一体感である。一体性は、人間においては想念の域を越えないが、魂意識は、それまでの自分との関係性を失うに比例して、唯一なる真我、つまり一なる生命を啓示するものである。それは外的な側面に騙されないことを可能にさせる。目に見えるあらゆるものは分離しているが、生命は目に見えない。目に見えないものを見るために、我々は日々、目を瞑っている。
例えば、人生が辛いとする。不幸は定期的に起こり、苦しみがなくなることはない。魂意識に入れるならどうか。苦しみは瞬時になくなる。人間の意識から、魂の意識に焦点を移すだけである。どんな不幸の最中でも、至福でいることが可能になる。人は深い眠りの最中に物質界の出来事から自由になるが、正しい瞑想と瞑想生活の積み重ねにより、我々は目覚めた意識のまま、物質界の意識から自由になることができる。これが助けにならないはずはない。
なぜ人は魂を認識しないのか
これは別の言葉に言い換えることができる。「なぜ人は魂を認識する必要性に迫られていないのか」。これは、魂やそのあらゆる同義語に対して知識があるかどうかは全く関係がない。やがて人は自我で生きることが難しくなる。耐えられなくなる。これが魂への接近を急速にする。結局のところ、この内なる火急の要請は成熟度に由来しいている。
例えば、生まれてしばらくすると、人間は周囲の誰かが死ぬということを経験する。つまり、自分も死ぬことを理解する。ならば、なぜ生まれたのか。なぜ生きねばならないのか。これらの疑問が頭から離れなくなる。ここを差し置いて、親や学校の先生が言うから勉強をしたり、皆がしているから皆と同じことに励んだり、他人に優先事項を定められることは難しくなる。生やおのれを知ることが最優先になる。
霊的な達成者を何人か見てきて、彼らがだいたいこの種の子供時代を過ごしていることに気がついた。したがって、他人や社会に染まらず成長し、年齢に関係なく無邪気さを維持しており、バランスを欠いた低位マインドの発達から免れている。普通の子供は心の発達の前に頭を発達させられる。そのまま大人になる者がほとんどである。そのため世界は至るところで大きな子供が支配している。彼らは精神の赤子だが、無邪気ではない。
彼らは魂よりも物質に精神を汚染されており、物質界とアストラル界に主に幻惑されている。したがって助けたくても助けられない。彼らがこのような話に耳を傾けることは、強烈な不幸や苦悩や悲哀によって考え方を改めさせられるような体験が人生に幾度となく起こらない限り、普通は難しい。逆に言えば、いま苦しんでいる者の、なんと幸福なことか。彼らはきっと、苦しみから脱する必要性を認識するだろう。苦しむ能力は真に偉大さへと導く。
しかし、苦しみは自作自演である。このことを、新たな意識状態で知るだろう。どんな苦しみの最中でも、どんな子供よりも無邪気に喜びに溢れることが可能である。なぜなら、何の重荷もないからである。その領域では問題が存在できない。問題や、苦しんだり楽しんだりする人間の感覚を作り出すマインドが大人しく魂に従っているからである。全く真実ではないものをあえて現実と思ったり、全く自分とは関係のないものをあえて自分と想像したり、おのれを養うためにわざわざ問題を作り上げていたこと、この痛ましくも哀れなファミリービジネス、破滅的な自転車操業の認識は、我々を無知から切断するだろう。常識や、まことしやかに他人が言うことや、自身がかたく信じてきたことや、何もかもをも超越して、苦しむ必要がなかったことを知るだろう。我々が何をしたにせよ、罪などなく、あるのは許し、慈悲、ほほえみであることに喜びながら直面し、何もかもを思い出すだろう。誰もがこの状態に入れるようになってほしい。そうすることで、自分を救済する必要から自由になり、他人を救済する魂になってほしい。
なぜなら、我々は共に歩んでいるからである。この燃料は愛である。しかし、この認識から人類は遠く離れている。人類を先導する者が増えることが目標である。自分の救済より他人の救済が重要な人間が増えることが願いである。かつて無知な人間から聖者や悟った者などと呼ばれたような者が、当たり前のように身近から次々に現れるようになるだろう。このようにして、かつては瞑想する者や一部の魂的な爺だけが知っていた秘密の故郷が世間の常識になり、苦しむ者は消えるだろう。苦しむ者は即座に助けられる世の中になるだろう。このような社会を支配するのは愛である。愛は今もすべての人に内在している。愛は、自分の問題に興味がなくなるとき、発見されるだろう。なぜなら、人間は間違った自分という内を見て、その誤った内に引きこもっているために、利己主義で愛を塞いでいるからである。もし、全く自分に関心がなくなり、唯一なる生命と意志にしか関心がなくなるならば、一発で愛の伝導体になる。愛は、人間が体験したことのない、耐えられないほど素晴らしいものである。愛ほどの学び、愛ほどの癒やし、愛ほどの守護、愛ほどの親、愛ほどの喜びを、我々が知らずにいるという時代をはやく終わらせたい。
成熟度について
この問題をクリアしているから通常は真剣に瞑想をする生涯を送っている。普通の人間は瞑想が生の根幹になりうるほど経験豊かではない。何か別の楽しみのために生きている。瞑想者は、個人的な楽しみがなくなった者である。少なくとも、楽しめなくなりつつある者である。何が価値あるものなのか、考え方、感じ方を改めさせられている者である。瞑想は技術的な側面があり、上達というものが存在する。最初は自我で瞑想してしまうだろう。やがて自我を超越した存在が意識内にて知覚されるようになるだろう。彼が瞑想しているのである。これを知ることが明け渡しである。個人の努力は去るだろう。こうして魂を認識したならば、彼のエネルギーが、人間が経験を積む三界つまり物質界・アストラル界・メンタル界のフォースに力を及ぼすことを理解するだろう。このエネルギーで諸体を統御し、拡大する意識に次々と融合し、気がつけば魂の意識は当たり前になっているだろう。自我が破壊されるのはその後である。魂意識は、自我が破壊される前から達成するものであり、したがって何ら遠い段階ではない。