2023年1月– date –
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門
それはただ美しい。何もかもが美しいならば、法則もまた美しいのである。それは完全ゆえに美しい。おのれを不完全と見なす者は、瞑想によってここに辿り着くだろう。それは在り、それしかないが、瞑想すれば運ばれるだろう。自我はここに来れない。人間として辿り着こうと抵抗してはならない。この宮は在るが、門を叩くとき、「私は何某だが」と言っても反応はない。手ぶらの者、所有せぬ者、裸の者だけが迎え入れられる。ここは名を持たぬ者、限定せぬ者、白痴や赤子のような「染まってない者ら」が、ただ無邪気... -
われ光なり
瞑想は独学である。誰も教えないだろう。外的な教えは知識として人間を満足させるが実践には向かない。それは自身が見て体験した知恵ではないからである。独学とは、自我が魂から学ぶという意味である。魂の声は沈黙の声である。この声は、人間の騒音がかき消された時に聞こえるようになるだろう。人間の騒音とは、アストラル体とメンタル体の騒音のことである。これらのフォースは通常、暴走している。あてどなく彷徨う亡霊であり、愛に飢えた狼、生きることで苦しみを表現する飽くなき涙である。獣に理性を与え... -
2. この合一は、サイキック性質の征服とチッタ(マインド)の抑制によって達成される。
アリス・ベイリーによるパタンジャリのラージャ・ヨガ、第一の書のスートラ2である。このスートラには合一における本質的な重要事項つまり前提条件が二つ述べられている。 アストラル体の統御。本書では「気まぐれなサイキック性質の統御」と書いてある。サイキック性質とはカーマ・マナスのことである。単純訳では、カーマは欲望や情緒、マナスは知性であり、したがってカーマ・マナスは欲望知性、すなわちマインドによってかすかに色づけられた情緒体(アストラル体)である。我々は感情や欲求つまりアストラル...