2024年1月– date –
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子供の老衰
ある肉体に与えられた特定の名前がある。この肉体や名前を私とみなしている私とは思考である。この意味において、思考と思考者(私)は同じである。しかし、その背後に隠れた私が在る。これが真我である。隠れても秘められてもいないのだが、思考者としての私が、その私を前提とした思考に対し、次々と同一化するため、気づく暇がないのである。イニシエートが「思考と思考の隙間にそれは在る」と言ったのはこの意味である。同一化とは、思考でしかない方の私が、その私から始まる種々雑多な思考に対し、「私の考... -
目に関する対話
長らくあなたの記事を読んできましたが、大きな懸念があると言わざるをえません。前回の対話のなかで、「自我は疑い深い目には耐えられない」というフレーズに私は着目しました。そして自身を見ました。私というものを見ようと、まさに疑い深く見つづけました。しばらくすると私は疲れてしまい、私の目は実りをもたらさず、どうせ私は自我なのだから無理に決まっている、といういつもの落胆に襲われました。私の懸念点とは、この目についてです。気づくこと、見ること、これは私の目つまり心の目ではなく、私の知... -
時間に関する対話
進歩に時間がかかるという、おそらくは事実であることを君は否定している。 事実は解釈である。そしてあなたは、進歩に時間がかかると解釈せざるを得ない。なぜなら、人間の自我意識を見ているからである。それは不完全であり、達成できない苦しみに満ちており、その葛藤に対し近視眼を余儀なくされている。だからあなたの事実と現在は、苦悩である。この者ですら、眠りに落ちると苦しむ自分を忘れるのである。したがって、苦悩や解釈や事実は、あなたが眠りから目覚めた後に自分で決めたことである。 自我意識で... -
葛藤と調和
人生の多くは葛藤であり、誰かや何かとの比較であり、競争と闘いであり、チャレンジとサバイバルである。人が成熟したとき、これらはただの苦痛になるが、そういうものだとされている。人生とは人が生きると書くが、これが不幸の原因である。人生は行為であり、行為の主は私である。私は分離した個我であり、独立した単位である。行為すること、努力して成し遂げること、自身の足跡を残すこと、歩みをもって自己の存在意義を弁護すること、このような歪曲された目的のために人は生きており、これらいずれの行為も... -
生の喜びは今
朝起きる。夢のない魂の界層(メンタル界の高位亜界)から、夢を見るアストラル界を経て、やがて物質界での目覚めが生じ、我々の世界、特定の自分という物語が記憶を通して再開される。このとき、起きたそばから喜びに満ちる者は稀である。今日は楽しいことがあるから嬉しいと言うならば、それはアストラル的な反応であって、魂の喜びではない。もう六時か。職場へ行く準備をしないといけない。子供の弁当をつくらないといけない。起きるやいなや、朝日の美しさも目にとまらず、現実的な話が重くのしかかってきて... -
進歩を超えて
進歩を妨げる要因は、進歩という概念である。なぜなら、進歩は未来の話だからである。時間の感覚は、脳の反応の結果であり、解釈である。最も一瞬にて進歩を可能にするのは、目の前の現在であることに、我々は気づけずにいる。霊的な道や、時間をかけて進歩しゆくといった想念を堅持するならば、現在とは疎遠である。今、目の前に統御されていないフォースが野放しにされている。このフォースが、我々の意識や気分の原因になっている。宝くじを定期的に買う者がおり、彼は買い集めた大量の宝くじを目の前に置いて...