2024年5月– date –
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自然瞑想
話しても無駄なことではありますが、そのときの結論といいますのが、「人間というものは、何一つ知っているのではない、ものには何一つ価値があるのではない、どういうことをやったとしても、それは無益である、無駄である、徒労である」……そのときに思わず自分の口から出た言葉は、「この世には何もないじゃないか」ということだったんです。"ない"ということが、わかったような気がしたんです。今まで、ある、あると思って、一生懸命に握りしめていたものが、一瞬の間になくなってしまって、実は何もないんだ、... -
鬱病と瞑想
低位の力と高位の力がある。平均的な人間意識は、低位の力しか知らず、何事も低位の力で行っている。それは、低位我を自分と考えているからである。低位我というものは存在せず、それは想念が想像している想念でしかない。言い換えれば、思考者は思考が考案したものである。低位我や自我は実在していない。高位我つまり真我に抵抗して、一なる生命から独立して、肉体や思考や精神や感覚知覚や名前といったものを自分であるとか自分のものであるとか考えるため、そこに不調和と摩擦が生じ、苦しみを感じるか(普通... -
I AM
事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。 ヨハネの黙示録 21:6-7 これは瞑想者の言葉である。「I AM」がアルファでありオメガである。それは自我が目指していたものであり、最初から到達されていた真我である。これを信憑性の高い仮定として認める者は、瞑想し、きわめて無料、きわめて無労力、きわめて無学、きわめ... -
ラマナ・マハルシの「私は誰か」について
前回の記事にはとても違和感を持ちました。ラマナ・マハルシの弟子には何人も覚醒者がおり、弟子の弟子にも存在しています。いずれも「私は誰か?」という手法を通じてのものです。あなたはこれを知らないのか、「私は誰か? は逃避であり、物真似で到達することはない」と言い切っています。私自身も、「私は誰か?」を通して瞑想しており、効果を実感しています。そのため、前回の記事のマハルシに関する箇所は、何度読み返しても乱暴な断定だと思います。 マハルシの弟子の話はひとまず置いて、あなたは具体的... -
A地点
瞑想に方法がないなら、私はどうしてよいか分からず途方に暮れます。 現時点の意識をAとして、求める状態をBとするならば、あなたはAからBに向かうことが瞑想だと信じている。これが全てのあなたの苦悩の原因である。事実は、Aが答えである。Aを知ることでヴェールは剥がれ、Aで在ることで秘められた神秘が知られ、最初からAであり、またいつであれAでよかったことを理解することで探求は終焉し、より高い螺旋状にて新たな探求が始まるのである。したがって、まことに神の名は「I AM THAT I AM」である。 私は魂を... -
気づきと瞑想
最近の文章について質問ですが、「法則違反」とは具体的にどういう意味ですか。 自分が思考・言葉・行動の原因であると考えるときに法則からの逸脱が生じる。目に見えるすべては結果であり、真我はこれらすべての結果の原因であり、同時にすべての結果と無関係である。 では、「法則との一致」はどのようにして可能になるのでしょうか。 行為や言動や感覚知覚といったものの主体が自分であるという想念がないとき、つまり純粋な気づきに意識が留まっているとき、エネルギーの誤用はなくなり、法則や世界や神の意志...
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