2024年8月– date –
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夢の中の男
一時期だけ、発作的な熱狂で瞑想にとりくみ、結局はやめました、そんな時期もありました、という人は多い。動機が不純だったのである。そんな中で、いくつもの神秘的つまり日常ならざる体験をし、瞑想の道の素晴らしさ、偉大さを認めた者がいた。その後、何も起きなくなり、こころ揺さぶられる体験もただの薄れた記憶となり、瞑想をやめてしまった。この者については、悪いカルマつまりパーソナリティーがどん底を味わうような体験が起きないかぎり、戻ってこないだろうと思っていた。昨日、夜中に電話してきた。 ... -
霊的栄養学
人は肉体を自分と思って生きている。ゆえに、肉体の栄養を気にしている。弟子は魂が自分だと思って生きている。ゆえに魂の栄養を気にしている。 魂は、メンタル界の第三亜界に存在する。霊的な道を人が歩みはじめるとき、彼の意識は第四亜界のレベルにある。彼は第三亜界の意識に到達するための栄養を必要としている。そのため瞑想する。瞑想が終われば正しい生活を送ろうとする。こうして人間の三重の諸体に第三亜界の物質が一定割合くみこまれたとき、彼は魂を認識できるようになる。こうして弟子の次の目標は、... -
絶対に関する無題
私はすでに実体である。実体を知るためにそれを追求する者は決して見出さないだろう。なぜなら実体とは彼にとって概念だからである。あらゆる概念が無視され、関係ないと感じられ、想念を生むシステムがそれ以上の力に静かになったとき、概念ではなくそれ自体である実体が我として知られるだろう。そしてその実体はすべてに最初から遍満しているものであり、それしか存在していない。私は唯一であり、すべては唯一である。これを知ることが悟りと誤って呼ばれている事実認識であり、それは錯覚を生み出してきた概... -
意識の彼岸
変性や変容もまた外の意識に属し、それはマインドの錯覚である。瞑想で意識は変容するだろう。諸体から不純なもの、粗雑なものが取り除かれ、波動が高みに安定することで、それに応じて意識が変容したことを我々は知るが、それを知覚しているのはマインドである。感覚を知覚させる感覚体つまりアストラル体が高位に従うとき、感覚体が映し出すものは、もはや個人的な感情でも情緒でもなく、全我に由来する愛や喜びに変性される。それをマインドは知覚するが、知覚している者つまりマインドを通して外を見る魂は、... -
彼が私、力は彼
あるがままを受け入れるように教師は言う。抵抗しないようにと。この種の言葉を字義通りに受け止め頑張っている方に解説したい。受け入れようとか、抵抗しないでおこうとか、そのように抵抗しても意味はない。楽にはならない。率直に言う。低位我が抵抗であり、高位我が受容である。低位我ではなく高位我でありなさい、とそのような教師は言っているのである。つまり高位我の状態を低位我に強いても出来ない話である。 想念をしずめ、雑念を振り払うように瞑想の教師は言う。これも同じである。想念と自我は同義語... -
病は気の乱れ
※この記事は医療従事者を批判する意図はなく、また病院へ行くべきではないという趣旨でもない。 病気は気の病と書き、気はエネルギーであるが、気やエネルギーが病になることはない。瞑想で、我々は正しい気の流れを知る。同時にそれが法則であり、高位の律法ないしは掟であり、神意識を可能にさせる自然と調和であることを悟る。正しい気の流れを阻害するとき、掟に背く活動が行われた箇所、法則がないがしろにされたエーテル的な部位の現れとして、その周辺の肉体に何らかの病的形態が確立される。西洋医学はこ...
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