2024年– date –
-
乱
法則と調和している限り、世界や出来事から心理的な影響を受けることはないが、この守られた意識が平時に定着するまで、人は有害と無害という概念の中で生を余儀なくされる。その場合、霊的な成長という観点から、世の中は有害なもので溢れている。この害悪は意図的なものである。 特に物質界とアストラル界において、人類が霊的な上昇気流に乗ることを阻害しようとする力(もしくは勢力)が優勢である。イニシエートには、いわば上昇のイニシエートと下降のイニシエートが存在し、共に進歩しているが目的が真逆で... -
イリュージョン
マインドが「すること」を止めるとき、それは単に在る。対象化がないとき、私たちの絶対的存在が在り、顕現した宇宙はない。 「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」p.116 付け加える。マインドが「すること」を止めるのは、マインドが魂を知覚するからである。我々は、マインドが、それ自体で充足している意識の上に塗り重ねられたイリュージョンであり、純粋な意識つまり魂がその表面的なマインドの観念的羅列と自身を同一化することで、マインド意識すなわち分離した自我意識を体験しているだけである。... -
聖
本当の幼年、私たちが真に子供であったとき、警戒を知らない時代があった。純粋さゆえの無警戒、記憶や知識が決して人を条件づけない地上の天上意識、知性も経験も過去も維持されながら、なお子供以上に子供であり、静かな喜びや嬉しさが支配する天真、この無色と純白がハートを通して蘇るとき、大人は驚愕しつつ、しかしこの感覚をぼくは覚えていると言うだろう。顔つきから邪まなものは取り去られるだろう。誰に対しても、何に対しても、純白すぎて警戒をする必要がなく、恐れがなくなるとき、これほど生は素敵... -
法則との一致
我々は「意識」という言葉を使うが、通常、その言葉の背後には「自分」が存在する。意識を認識している者である。この者は、人間においてはマインドである。よってマインド意識が自我意識であるのに対して、この者が消し去られてもなお存在するより広大な認識する者をやがて我々は理解する。この、我ならぬ我、これは様々な言葉で命名されているが、本来は命名してはならない。概念化した瞬間、それを捉えることはできなくなる。前者の我つまり自我と、後者の名づけえぬ我の違いを、ここでは一点に集約したい。そ... -
解放というナンセンス
もし現象と非現象の間の基本的融合が見失われれば、対象化と観念のぬかるみの中で行き詰まってしまうだろう。いったん、非現象は私たちであるすべてであり、現象は私たちが分離した対象物としてそう見えるものであることが理解されれば、どんな実体も私たちの本質に関係することはできないこともまた理解され、それゆえ解放を必要とする実体という観念がナンセンスなものと見なされることであろう。そして「解放」がもしあるとすれば、まさに束縛と解放という観念からの解放であることが分かるだろう。 「ニサルガ... -
子供の老衰
ある肉体に与えられた特定の名前がある。この肉体や名前を私とみなしている私とは思考である。この意味において、思考と思考者(私)は同じである。しかし、その背後に隠れた私が在る。これが真我である。隠れても秘められてもいないのだが、思考者としての私が、その私を前提とした思考に対し、次々と同一化するため、気づく暇がないのである。イニシエートが「思考と思考の隙間にそれは在る」と言ったのはこの意味である。同一化とは、思考でしかない方の私が、その私から始まる種々雑多な思考に対し、「私の考...