2024年– date –
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真の関心は無関心
「愛情を受けて育つことがなかった」ことを言い訳に、非行や悪行に憐れみの目を持とうとする風潮がある。そのような者ほど、愛情とは何かを理解したがらない。愛情と愛はパーソナリティーと魂ぐらいに違うものである。愛情とは、対象を「どうにかしたい」という利己主義を含蓄している。多くの知的な大人がこれを理解できずにいる。いわゆるグラマーが理解できないのは、情緒的なフォースが強力だからである。よって、愛情という名に隠れた自らの腐敗を見ること、認めることを「情」が遮り難しいのである。 花に実... -
青い川
「川のない生活はお辛くありませんか」と女性は言った。歳は四十代。短い黒髪に黒縁の眼鏡。大学で福祉を教えているという。引っ越し先で我々が彼女と出会ったとき、最初に言われたのが「川」の話だった。このあたりは四方八方、山々は美しいのですが、身近な川はどこも枯れています。それなりの川に接するためには車を走らせる必要がありますから。どこかよい川をご存知なのだろうか。彼女は読み方が正確かどうかを知らなかったが、ある渓谷の名と、そこを流れる「青い川」への道を教えてくれた。折を見て行って... -
見るものに私を知り、すべては私になる
何かが在るとは、単純に解釈である。早合点の解釈や常識に安心を求めるのではなく、あなたの外に、一つでも何か別のものが在るという現象に目を凝らしてもらいたい。あなたに苦しみが在る。あなたと苦しみは喧嘩中であり、互いを憎み、排斥し合うことを望んでいる。マインドよりも上の目で見ようとするとき、あなたと、その苦しみは、全く同一のものである。もしこれが本当に分かるならば、対立しようがないだろう。分離意識のときのみ、対立という錯覚が可能なだけで、すべてが自分であることを見抜きさえすれば... -
喧嘩中
瞑想者とは、瞑想に救われる者である。瞑想を通して、低位我は高位我に救われ、意識は自身である高位我へ焦点化されるようになり、低位我との関係はそこで打ち切られる。瞑想を始めた時の者はいなくなり、引き上げられる。皆、何かしらの理由で瞑想を始めるが、それは通常、自分や人生への不満や絶望や苦痛といった、救われねばならない状態からのものだったと思うのである。この瞑想を始める者は、やがて瞑想に救われ、どのような苦悩も無くなり、すべてが美と喜びに変わったことを知るだろう。どのような人間も... -
いわゆる悪の華
ぼちぼち忘年会を始めているのですが、行く前は「嫌だなぁ」という気持ちです。そして周りに合わせる程度にお酒を飲んでいると、ついつい楽しくなってきて、強いお酒を人一倍飲んでしまい、翌日はとても苦しい二日酔いを体験することになります。何と言うか、うつ病のような気分に落ち込んでしまうのです。あなたは以前の記事で、二日酔いのようなものは簡単に治療できると書いていた記憶があるのですが、どうすればいいのか私に理解できるように教えてください。 二つの方法がある。二日酔いの苦痛を味わわせてい... -
至るという病
至る方法はあるのでしょうか。ないのでしょうか。ないのなら、人間は途方に暮れます。 途方に暮れる人と真のあなたは何の関係もないから問題ないのだが、これが分からないという無知が問題を作っている。「至る方法」と言うとき、あなたは内ではなく外へと向かう。つまり、低位我で何かを行っても、それは低位我の世界に属し、よって低位我を拡大するだけであることを、少なくとも理論的には納得しないといけない。それより、「至る方法」が必要なのはなぜなのか。何をあなたは恐れているのか。何から逃れんとして...