2024年– date –
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観照だけが自由
瞑想する者が関与することになる高位の波動について解説する。 まず、低位我が瞑想を開始し、その瞑想が長年にわたり適切に行われたとき、低位我を構成する物質の中に、一定割合、最初に認識することになる高位亜界である第三亜界の物質が組み込まれるようになる。このとき、低位我は魂と呼ばれてきた高位我を認識するようになる。これはヒンズー哲学ではアートマン、キリスト教哲学ではキリストの概念に相当するものである。 低位我は、四六時中、高位我である魂の波動にさらされるようになる。多くの熱心な弟子... -
巻き込まれるなかれ
瞑想は日常を含む。日常を含まなければ、何のための瞑想だろうか。日常を飲み込まぬ瞑想は非実践的であり、その者を決して変えてはいない。 日常では個人に帰り、アストラル的になり、都合の良いときだけ瞑想しよう、これは初心者なら許される。例えば車に乗っていて、渋滞で苛つく者がいる。他人の乱暴な運転であわや事故になりそうなとき、その相手に腹を立てる者がいる。急いでいるとき、前の車が徐行並みの速度で走行しているさまに我慢もならず、車間距離を詰めて煽り運転をしたりクラクションを鳴らしまくっ... -
分離なき意識
融合とは何なのか。何と何が合一するのか。私と魂とか、低位と高位とか、これらは錯覚である。これら自体がいずれも思考である。見る者と見られるもの、この壁を作り出しているのは想念である。高位の波動を我々は認識するかもしれないが、そこには、波動と波動を認識する者という分離が存在する。この無知が溶け去ることが融合である。無知が取り払わることで、見られていたもの、認識されていたもの、知覚されていたもの、これらの投影すべてがわたしへ帰ってくること、これが調和であり平和である。分断のない... -
夢の中の男
一時期だけ、発作的な熱狂で瞑想にとりくみ、結局はやめました、そんな時期もありました、という人は多い。動機が不純だったのである。そんな中で、いくつもの神秘的つまり日常ならざる体験をし、瞑想の道の素晴らしさ、偉大さを認めた者がいた。その後、何も起きなくなり、こころ揺さぶられる体験もただの薄れた記憶となり、瞑想をやめてしまった。この者については、悪いカルマつまりパーソナリティーがどん底を味わうような体験が起きないかぎり、戻ってこないだろうと思っていた。昨日、夜中に電話してきた。 ... -
霊的栄養学
人は肉体を自分と思って生きている。ゆえに、肉体の栄養を気にしている。弟子は魂が自分だと思って生きている。ゆえに魂の栄養を気にしている。 魂は、メンタル界の第三亜界に存在する。霊的な道を人が歩みはじめるとき、彼の意識は第四亜界のレベルにある。彼は第三亜界の意識に到達するための栄養を必要としている。そのため瞑想する。瞑想が終われば正しい生活を送ろうとする。こうして人間の三重の諸体に第三亜界の物質が一定割合くみこまれたとき、彼は魂を認識できるようになる。こうして弟子の次の目標は、... -
絶対に関する無題
私はすでに実体である。実体を知るためにそれを追求する者は決して見出さないだろう。なぜなら実体とは彼にとって概念だからである。あらゆる概念が無視され、関係ないと感じられ、想念を生むシステムがそれ以上の力に静かになったとき、概念ではなくそれ自体である実体が我として知られるだろう。そしてその実体はすべてに最初から遍満しているものであり、それしか存在していない。私は唯一であり、すべては唯一である。これを知ることが悟りと誤って呼ばれている事実認識であり、それは錯覚を生み出してきた概...