2024年– date –
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意識の彼岸
変性や変容もまた外の意識に属し、それはマインドの錯覚である。瞑想で意識は変容するだろう。諸体から不純なもの、粗雑なものが取り除かれ、波動が高みに安定することで、それに応じて意識が変容したことを我々は知るが、それを知覚しているのはマインドである。感覚を知覚させる感覚体つまりアストラル体が高位に従うとき、感覚体が映し出すものは、もはや個人的な感情でも情緒でもなく、全我に由来する愛や喜びに変性される。それをマインドは知覚するが、知覚している者つまりマインドを通して外を見る魂は、... -
彼が私、力は彼
あるがままを受け入れるように教師は言う。抵抗しないようにと。この種の言葉を字義通りに受け止め頑張っている方に解説したい。受け入れようとか、抵抗しないでおこうとか、そのように抵抗しても意味はない。楽にはならない。率直に言う。低位我が抵抗であり、高位我が受容である。低位我ではなく高位我でありなさい、とそのような教師は言っているのである。つまり高位我の状態を低位我に強いても出来ない話である。 想念をしずめ、雑念を振り払うように瞑想の教師は言う。これも同じである。想念と自我は同義語... -
病は気の乱れ
※この記事は医療従事者を批判する意図はなく、また病院へ行くべきではないという趣旨でもない。 病気は気の病と書き、気はエネルギーであるが、気やエネルギーが病になることはない。瞑想で、我々は正しい気の流れを知る。同時にそれが法則であり、高位の律法ないしは掟であり、神意識を可能にさせる自然と調和であることを悟る。正しい気の流れを阻害するとき、掟に背く活動が行われた箇所、法則がないがしろにされたエーテル的な部位の現れとして、その周辺の肉体に何らかの病的形態が確立される。西洋医学はこ... -
何に癒やされたいのか
辛く厳しい生活のなか、誰もが束の間の癒やしを求めている。生きてゆくために働き、働くがゆえに疲弊し、おのれを保ち続けるために癒やされに行き、その癒やしのために骨を折ったり大枚をはたいたりする。癒やしの趣向は変化しても、人の一生はこの繰り返しである。疲労と癒やし。しかしながら、最後には癒やせない病いに屈して床に伏し、癒やし手がもはや不在になったことを孤独に受け止め、死の時、"迎え"こそが待ち望む最大の癒やしになる。 疲労しないなら、癒やされなくても済むだろう。寂しくも空虚でもなく... -
真のアイデンティティー
瞑想は集中なのか。広く知られている集中の概念は誤った解釈であり翻訳である。集中には、集中しようとしている者か、集中している当の者が存在している。いわゆる集中は、理想の想念へと到達しようとする抵抗である。真我がすでに私であることを知らない者のみが為しうるAからBであり、それは無為にはほど遠い方向性の誤認である。真我とは私である。真我は集中によって達成されず、集中しようという錯覚した想念の背後の実在である。睡眠の安らぎは、睡眠に集中した状態でありながら、そこには集中しようとする... -
病気の治療と医学の復権
病気は、望まれるように、つまり計画通りに機能していないエネルギーであると言うならば、あなたは誤解するであろうか。流入するエネルギーがフォースと関係づけられることで、健康、強い適切な形態、活発な活動を生み出す。しかし、流入する同じエネルギーが同じフォースと関係づけられることで、摩擦点が生まれ、病んだ部分、苦痛、苦悩を生じさせ、ときには死を引き起こすことさえある。エネルギーとフォースが本質的に聖なる性質であることは同じであるが、確立される関係が問題を生じさせるのである。この文...