2024年– date –
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諦める
進化の過程を述べるにあたり、進化方法全体が、単に物質が霊の表現体として完全に適したものになるよう物質様相を霊様相に適合させていく方法であるということを簡潔に述べる以外にするつもりはない。 アリス・ベイリー「宇宙の火 1」p.304 不幸な人生に原因はありますか。それはカルマで決まっていますか。原因があるならその原因を正して幸福や幸運な人生を引き寄せることはできますか。 幸福は不幸の原因である。なぜなら幸福とは自我のものであり、自我は幸福の中で個人に没頭し、真我を忘れるからである。... -
意識的な日常
……これはいずれの場合においても、質料によって限定され閉じ込められ支配されているある存在の意識状態である。私は「形態」と言わずに「質料」と言った。なぜなら、長い、非常に長い表現周期の間、霊を支配するのは質料だからである。支配するのは物質ではない。粗雑な物質は常に、エーテル的な性質を帯びた、つまり形態ではなく秘教的に質料と見なされるフォースによって支配されているからである。 アリス・ベイリー 自我意識が優勢なとき、人間は魂に対して陰であり、魂のエネルギーに対して客体であると感じ... -
自然瞑想
話しても無駄なことではありますが、そのときの結論といいますのが、「人間というものは、何一つ知っているのではない、ものには何一つ価値があるのではない、どういうことをやったとしても、それは無益である、無駄である、徒労である」……そのときに思わず自分の口から出た言葉は、「この世には何もないじゃないか」ということだったんです。"ない"ということが、わかったような気がしたんです。今まで、ある、あると思って、一生懸命に握りしめていたものが、一瞬の間になくなってしまって、実は何もないんだ、... -
鬱病と瞑想
低位の力と高位の力がある。平均的な人間意識は、低位の力しか知らず、何事も低位の力で行っている。それは、低位我を自分と考えているからである。低位我というものは存在せず、それは想念が想像している想念でしかない。言い換えれば、思考者は思考が考案したものである。低位我や自我は実在していない。高位我つまり真我に抵抗して、一なる生命から独立して、肉体や思考や精神や感覚知覚や名前といったものを自分であるとか自分のものであるとか考えるため、そこに不調和と摩擦が生じ、苦しみを感じるか(普通... -
I AM
事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。 ヨハネの黙示録 21:6-7 これは瞑想者の言葉である。「I AM」がアルファでありオメガである。それは自我が目指していたものであり、最初から到達されていた真我である。これを信憑性の高い仮定として認める者は、瞑想し、きわめて無料、きわめて無労力、きわめて無学、きわめ... -
ラマナ・マハルシの「私は誰か」について
前回の記事にはとても違和感を持ちました。ラマナ・マハルシの弟子には何人も覚醒者がおり、弟子の弟子にも存在しています。いずれも「私は誰か?」という手法を通じてのものです。あなたはこれを知らないのか、「私は誰か? は逃避であり、物真似で到達することはない」と言い切っています。私自身も、「私は誰か?」を通して瞑想しており、効果を実感しています。そのため、前回の記事のマハルシに関する箇所は、何度読み返しても乱暴な断定だと思います。 マハルシの弟子の話はひとまず置いて、あなたは具体的...