I AM

事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。

ヨハネの黙示録 21:6-7

これは瞑想者の言葉である。「I AM」がアルファでありオメガである。それは自我が目指していたものであり、最初から到達されていた真我である。これを信憑性の高い仮定として認める者は、瞑想し、きわめて無料、きわめて無労力、きわめて無学、きわめて無時間つまり即時に、真我の顯現性を知るだろう。「I AM」がA地点であり、想念がB地点である。人間のマインドが見ているのはB地点であり、反対方向のA地点から絶えず逃避することで自我を養い続けている。「私は誰か」や「私は在る」に焦点を定める聖者の教えは、単にそのことを言っているだけであり、魂と接触した後における探求の序盤、マインドがまだ活発な時にのみ有効な、きわめて限定的な意識の時期における手法の一つでしかない。この段階を過ぎると、私がすでに真我であり実現であり成就である。私が私である。探求を始めたときの私は死の深淵に安らぎ、真っ暗闇の深海に沈没することで永遠の眠りにつき、果てもない夢から醒める。想念がなくなるとき、このような「眠りのない眠り」が訪れ、言い表しようのない至福に没入する。それが「I AM」である。

自我はB地点しか見えないため、自我意識から夢のようなB意識に到達すると錯覚している。それで様々な努力を行う。誰かの教えに従う。誰かに援助を受けたいと願う。恩寵を欲しがり、理想に到達しようともがく。「あるがまま」と言いつつ現状に不満を抱き、現状に抵抗し、A地点から逃避することが解決法だと思っている。彼らはしばしば不幸であり、ひどいカルマの下に生まれたものだと嘆くが、瞑想できる生涯が最高のカルマであることをまだ知らないのである。

瞑想に熟達し、自我つまりマインドが魂を認識するようになり、瞑想を続けることで接触を深め、諸体を魂に整列させることで魂が私になるとき、私とA地点が終点となる。これを完全にマインドが理解したとき、焦点が魂に集中され、想念が生じなくなり、マインドは力を失い、目覚めたままの死、眠りのない眠りが訪れ、これがすべての魂との融合をもたらす。

ならば君は自我意識ですらそれがゴールだと言うのか。

ゴールなどの想念が無くならねばならない。すると最初から私は私であり、私しか存在していない。これが真我実現である。

しかし、想念がなくなるためには、「私は誰か」や「私は在る」などの問いにより、A地点に意識を引き戻す必要があるのではないのか。なぜなら聖者方はそう教えているのだから。

序盤はまだそのようなことをする自我の力があるかもしれない。色々やってみるといい。あなたが瞑想に習熟し、書物の教えではなく、魂の教えに従うようになるとき、そのような想念を使用した方法は去るだろう。

初心者の自我が瞑想して、具体的にどのような順番で認識は生じていくのか。

魂の波動が頭部に来るようになる。次に魂自体と接触するようになる。次に魂が私になる。低位我の力は高位我(魂)の力に制圧されて大人しく眠るようになる。想念は自発的に起こらなくなる。これが維持されたときに三界は超越され、サマーディーが自然な意識であることが知られる。

ひどく簡単に言うが、それを達成している人はごくわずかであり、相当な難易度であると思われる。

そういうことを思っている人をあなたは自分だと思っているため、A地点に間違った者の意識、つまり個人意識を維持しているというだけの話である。しばらく瞑想を続けてほしい。魂を認識することが最初である。瞑想中など、頭部の上半球に高位我(魂)のエネルギーが流れ始めたならば、日常を通して静けさを維持することで、しばらくするとそれが24時間続くようになるだろう。この波長に、今まで生きてきた低位我の波長を合わせ始めるや、やがて高位我を認識するようになり、次に高位我の意識に入れるようになり、この融合の過程を通して、低位我ではなく高位我が私になり、それ以外は何も関係ないと感じるようになり、次に関係ないという感覚すらなくなり、マインドは完全に一なる源、真我に没入するのである。

僕が言いたいのは、それは難易度が高く、私にはできないのではないかということだ。これは誰にでも可能な話なのか。

そのような話を、どっちでもいいと思うようにならないといけない。自我がそのような想念で妨害してこようが、関係ないではないだろうか。あなたがすでに答えである。それを想念が邪魔しに来ているだけである。こうしてあなたはA地点から絶えずB地点に拉致されているのである。だからクリシュナムルティは、「想念と想念の間に『それ』は在る」と言ったのである。B地点という妄想の合間にA地点はあるが、それは肉体脳には最初は気づかれない。しかし、瞑想すると徐々に静かになる。そして静けさの中に心地よさを見出すようになる。この心地よさが痕跡であり前回の記事の引用が言うところの「手がかり」である。その波動こそが正しく、実際はその波動に合わせようとする必要すらない。ただ、正しい波動で在ればいいのである。つまり、A地点に満足しているとき、B地点への連れ去りがなくなり、意識は正しさへ自動的に固定されるのである。だから何もすることなく、何の重荷もなく、平和で至福なのである。このときのみ、カルマは生じず、B地点に行ってB地点で生きることが人生である限り逆に言えばカルマを生み出し続けるため三界に縛られるのである。カルマを生じさせず、A地点つまり法則に意識を没入させることが解脱と言われるものの鍵である。

つまり自我が何を想念しようが、無視すればいいのか。

言葉の上ではそうだが、あなたは、今あなたであるもの、つまり自我の力で無視しようとするだろう。これは自我の行為である。したがって失敗するだけであり、問題を強めるだけであり、ただ苦痛である。何にせよ、それでいいと思い、力を与えないことが極意である。最初は難しいだろうが、結局は瞑想を続けることしか方法はないが、間違った瞑想つまり自我の力でどうにかしようという瞑想をしても進展はないことを知るべきである。低位我の力ではなく、高位我の力を認識するようになることが第一である。それは誰にも頼らず、自身で静かに穏やかに、ただ瞑想にのみ頼り、瞑想そのものが持つ力におのれを委ねるならば、低位我の力が弱まることで認識されるようになるものである。

君の言葉には、常に希望がない。希望が見いだせない。はっきりそう思う。

それが狙いだからである。

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