誰の瞑想か

自然は努力していない。努力する「私」を所有している自然は人間だけである。人間はすべての自然とひとしく自然だが、「私」のせいで不自然を余儀なくされており、苦悩や不幸の原因が分からずに悩む。あるいは、困難の原因を他の個人、私以外の私を持つ者たちであると思っている。誰かに批判されたらその者のせいだと思うし、誰かに良くされたらその者のおかげだと思う。そして、相手の態度に応じて何らかの応対に努める。そして努める力、努力は、すべての自然を動かす力と一体だが、その力を自分の力と思い、錯覚するならば、努める自然の力は個人の意志によってねじ曲げられ、自然を乱す。平和を乱す。正常でなくなる。本来、努力とは自然に備わる力である。世の中では個人の力を努力と呼んでいる。低位我が骨を折ることが努力なのではなく、高位我の天上的な力が努力である。この力は天才的である。この力は全知にして全能である。「私」を介入させないならば、「私」の肉体は単に伝導体にして神の目的に仕える道具や通路としての表現体でしかなく、そのとき個人は存在せず、それまで個人であったものは全にして一であるもの、つまり自然でしかなくなる。これが自然体である。瞑想はこの自然体を個人に教えるものであるが、我々はしばしば個人瞑想を瞑想だと思っている。

あなたはあなた自身のものではなく、行うべき仕事のものである。これは、…あらゆる段階のすべての弟子たちに言えることである。

アリス・ベイリー「新時代の弟子道 4」 p.53

個人瞑想とは、個人の目的に自然の力を仕えさせようという愚かな試みである。それで上手くいかないなら不満、上手くいくなら自分の力だと思いプライドを満足させる。このような個人の上がり下がりの背後に不動の沈黙者が存在している。我々がアストラル体の質料を波動的に高めるまで、我々は気分や情緒といった上がり下がりに目を奪われて、その背後の沈黙に気づかないだろう。例えばプライドが高いなら、自然の産物である人間に上も下もないことが分からず、見た目や評判や先入観で分離して接し、その中で自分を偉く、強く、敬われ衆目を集めるに値する稀有な存在だと感じさせようと努める。「お前たちと私は違う」というのが基本的な彼の態度である。しかし彼は、その自意識過剰によって苦しみ、恐れ、不安に苛まれ、情緒不安定になることで間違いを学び、その背後の不動、沈黙、つまりは魂である高位我が自分であることに気づき、意識を一致させさえすれば、どこにも分離がないことをいずれ見出すだろう。そして平和になる。分離がないならどこに不安が、恐怖がありうるだろうか。外の個人や肉体が辛い思いをさせられようが、その低位我ではなく、意識と振動率を高位我に合わせてさえいれば、何も問題ないことを知らねばならない。

多くの弟子がひどく有能であり、よってプライドという悪魔に屈している。そして絶え間のない比較によって常にある種の無力感や劣等感に苛つき、その強迫観念から、低位我を輝かせることに夢中になっている。こうして短い一生を無駄にし、不安や恐怖心から逃れることが人生の主要な目的となっている。我々の瞑想の目的は、まずは高位我の認識である。魂との接触である。多くの聖者方の書物はこの部分が省かれ、第三イニシエーションに関する内容が多く書かれている。第二や第一で起こることも書かれねばならない。なぜなら、第一の者が第三の者の瞑想をしてもできないからである。最初は個人意識であるため、個人の努力が行われる。これをたくさん行うことで、いかに努力が無意味かを知るのである。こうして騒ぎは静けさへと席を譲る。そして彼は静かなる者になる。なぜなら、魂の方から彼に来訪し始めるからである。すると人間は言う。すべては美しいと。個人的には不幸でも、真我として喜びであり至福であると。そして平和であり調和であると。このようにして人は自然を学ぶ。これが自然科学、つまり明け渡しである。

瞑想とは別の日常の中で、接触を維持することが鍵である。数回もしくは頻繁に、最初は日常のふとした時に目をつむり、他人には居眠りと思われるかたちで融合し、われ知らず半目や白目になるならサングラスなどで防止し、融合に入り、どちらが自分であったかを思い出し、その中に何の不安も恐怖も苦痛もなく、すべての存在の美しさに合一し、一体であることの喜びを確認せねばならない。人と話すときは、相手は我々を個人と思っているため、それまでの自分を多少なりとも演じる必要があるかもしれないが、演じた後はもとの意識に戻り、分離はなく、他人などおらず、すべては私であり、私は真我であることを認識する習慣が必要である。

このような意識に入れるにもかかわらず、まだ低位我のプライドを捨てきれず、まだ個人の執着するものを手放せず、まだ自身を特定の名を持つ肉体人間であるという錯覚に固執している弟子は多い。我々は、その意識に入れるのならば、入っていなければならない。だからニサルガダッタ・マハラジは、「それは明らかにパートタイムの仕事ではない」と言ったのである。瞑想の時だけの融合では、我々は役に立たないままである。すべてが私であり、瞑想はすべてのためであり、個人のためではない。だから本来は、最初から個人瞑想などありえないことを教えるべきである。個人の発達、あるいは輪廻を通した進化という考え方も、本来は事実ではない。何でもそうだが、ある側面から見た解釈でしかなく、それはマインドの世界の話である。一に接触、二に融合、三に奉仕であり、奉仕がなされるのは接触し融合した高位我である私によってである。奉仕の質と量は、どれだけそこに低位我が介入していないかに比例する。そのとき人間は魂として次のことを理解し、奉仕が自然の摂理であり神の喜びに満ちた表現であることを体現するようになる。

もし欲求を満足させたいという衝動が人間の形態生命の基本的な衝動であるならば、奉仕しようという衝動は人間内の魂の同じく基本的な衝動である

秘教心理学・第二巻 上」 p.198
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