一時期だけ、発作的な熱狂で瞑想にとりくみ、結局はやめました、そんな時期もありました、という人は多い。動機が不純だったのである。そんな中で、いくつもの神秘的つまり日常ならざる体験をし、瞑想の道の素晴らしさ、偉大さを認めた者がいた。その後、何も起きなくなり、こころ揺さぶられる体験もただの薄れた記憶となり、瞑想をやめてしまった。この者については、悪いカルマつまりパーソナリティーがどん底を味わうような体験が起きないかぎり、戻ってこないだろうと思っていた。昨日、夜中に電話してきた。
夢を見ていたのだと言う。すると、この世で最も執着し、最愛とさえ感じていた命が無惨なかたちで失われ、その亡骸を抱いて慟哭の声を上げていたところ、そこへ見知らぬ男性がとつぜん現れて言った。「この事故は私が起こした。それはあなたを瞑想させるためである」。(中略)その場で彼女は瞑想した。男は彼女の脇に両手で触れると、叫び声が上がるばかりの電流(彼女はボルトと言ったが)を流され、そこで目がさめた。しかし、眠りからさめたにも関わらず、脇から入った波動が胸のあたりまでまだ続いていると言うのである。夢の続きが生じている。これはありうることではない。決して心地よくはないが、非常に心身が浄化される感覚が電流とともに続いている。あの男の人は誰だったのか。いま起きているこの現象は何なのか。あれはただの夢ではない。覚者もしくはイニシエートのような方ではなかったか。環境も何もかもが整えられた裕福な生活のなか、この世のものに浮かれ、死にゆくものに愛着を抱き、霊的に怠けている私に、本当に大切なものが何であるのかを、いま一度、教えに来てくれたのではないか。「上にあがる者とあがれない者の時がきたとき、あなたは取り残されてしまう」とその男は悲しそうに言ったそうである。……興奮して一通り話し終えると、彼女は再び瞑想の道を歩む覚悟ができたと言って電話を切った。決意が続くかは彼女しだいである。
ちなみに、この女性は書家である。書く文字に精神と波動が表れる。何を書いても筆が乱れていると感じていた矢先の出来事だと言う。意識は、様々な現象を体験させられる。夢を通して、高位の表現体を纏っている方が、このような見習いの弟子に個人的に訪問することはない。重要なのは、男性の姿で現れた者が伝えた内容である。この種の現象は、アストラル界の存在の憑依現象と関係する場合が多いが、見分け方がある。アストラル界の住人は誘惑してくる。つまり取引を申し出てくる。これを与えるからあれをしてほしいとか言う。なぜなら、その者が肉体を持たず体験できないため、騙されやすい者を狙って自身の欲求を満たすしかないからである。彼女に現れた男はどうなのか。瞑想してほしいとお願いしただけである。この世のものへの執着は悲しみを生み出す、だから本当に大切なものを見失わないでほしいとお願いしただけであり、そこには誘惑も取引もなかった。瞑想すればあなたをこのようにしてあげます、などとは言わなかったし、あなたはメッセンジャーとして役割を持つ選ばれた人間だ、などとも言わなかった。個人を有頂天にさせることは言わず、個人に焦点をあわせぬよう、その手段として瞑想に戻ってほしいと伝えただけである。
この世には、無数に表現体が存在する。そこには美しい者と醜い者がおり、善人と悪人がおり、また進化段階の高い者と低い者とが存在する。何を体現しているかの違いであり、実際に「人」というものはいない。この世では「いる」と表現するだろうが、瞑想でおのれを辿ればすべては同じ唯一の生命である。私とか誰とかはない。生命を知る意識に瞑想で入ったとき、彼女はその男もまた自分であったことを知るだろう。真我は現象を通して人を真我へ引き戻す。神は舞台の中で経験を積ませ学びを与え真我へ引き戻す。原因は唯一だが、唯一の表現は無限である。霊的な体験、霊的な現象は、その者がまだ未熟である場合、何なのか見分けることは難しい。イエスが瞑想していたときに三つの誘惑を悪魔に受けたように、アストラル界の存在は取引を持ちかける。誘惑で個人に揺さぶりをかけてくる。これを覚えておき、賢明に自身の欲求体を統御し、メンタル界にだけ集中できるようになり、魂を通して根源に直に帰る意志と力に整列せねばならない。肉体は第三光線、魂は第二光線、霊は第一光線の表現であり、最終的な破壊の鍵は第一光線にある。集中と呼ばれているものは、この神聖なる意志と力の結果であり、それは途方もない愛である。
意識が個人であり、高い人と低い人がいるとか、自分はその低い方に属しているとか、自分が瞑想しても無駄だとか、個人が考えそうなこととは関わらず、どの人間も平等に真我は見逃さないことを知り、神が賢いこと、選別するような未熟者ではないことを知り、夢の中の男が言ったように、瞑想にいつでも帰ってきてほしい。宗教の言う「審判」の概念は、この世にだけ関係する話である。それはどの惑星でもそういうことは起きてきた。それは何ら恐怖を与えるものではなく、それはむしろ祝祭であり、祭壇を前にして前列に座るか後列に座るかぐらいの違いでしかなく、怒りや罰の概念には全くもって相当しない。アストラル界の存在の常套手段は恐怖だが、瞑想する者が見出すのは美と喜びだけである。これが賛美歌であり、天国であり、すべては我、唯一なる我ゆえのこの無限なる愛と喜びの拡大を知る。本物がどうして脅すだろうか。本物が少しでも恐怖させたり苦しめたりすることはない。神は善である。我と我々は愛である。誰もが美しき光そのものである。これを瞑想が実際に教える。とつぜん知るだろう。とつぜんその意識が広がるだろう。それは言葉で表しようのない素晴らしいものである。私である神から逃げず、外の私ではなく、私じしんに今日も向き合っていきたいと思うものである。