観照だけが自由

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瞑想者が接触する高位の波動

瞑想する者が関与することになる高位の波動について以下に解説する。

1. 抽象亜界からの波動

まず、低位我(個人)が瞑想を開始し、その瞑想が長年にわたり適切に行われたとき、低位我を構成する物質の中に、一定割合、最初に認識することになる高位亜界である第三亜界の物質が組み込まれるようになる。このとき、低位我は魂と呼ばれてきた高位我を認識するようになる。

2. 魂の波動の影響下に入る

低位我は、四六時中、高位我である魂の波動にさらされるようになる。多くの熱心な弟子たちがこの周期に該当し、日々において悪戦苦闘している。これは次の三つの期間に分けられる。

  1. 諸体に第四亜界の物質を組み込む時期。もしくは第七と第六と第五亜界の物質を除去する時期。これは明確に熱誠家の段階である。肉体(厳密にはエーテル体)においてこれがある割合達成されたとき、人は第一イニシエーションと秘教徒が呼ぶものを受け、魂を肉体脳で認識できるようになる。

    この段階に至るまで、人は何が進行中なのかに関して完全に無知であり、自身を肉体であると考え、その肉体である自身の純潔が彼における幸福を意味するようになり、そのためしばしば断食や菜食や禁欲などの概念が彼の注目を捉えるようになる。そうすることで彼は肉体とエーテル体を高位我に反応できるよう無意識ながらも努めることになる。ひとたび第一イニシエーションを受けるや、彼はアストラル界について急速に学習を進めるようになる。
  2. したがって、並行して明確にアストラル体に第四亜界の物質を組み込む時期。これがある割合達成されたとき、人は意識的に道を辿るようになり、第三亜界の物質までもが必要な割合だけ組み込まれたとき、第二イニシエーションを受け、意識の拡大を体験し、それが通常の意識になる。

    この報酬の顕著な点は、人が感情的・情緒的な苦悩や欲求などから大幅に自由になる点にある。全般的にアストラル界のフォースに影響を受けることなく生きることが可能になるため、それまでは不幸を体験することができたが、それ以降に不幸という情緒的な体験はなくなる。体験しても、それを乗り越える力を持つようになり、即時に不幸から自身を解放できるようになる。モンテスキューの言葉で言えば、「人は死を悲しむのではなく、感情を悲しむべきである」という教訓がここで乗り越えられるのである。
  3. さらに並行してメンタル体にも第三亜界の物質を組み込む時期。これは第一の後半から第二イニシエーション以降の弟子の時期に該当し、第四亜界以下の物質を諸体から完全に除去することになる。しかも弟子はそれを意識的に行うようになり、第三亜界の物質をすべての諸体で優勢にし、第三イニシエーションと関係するようになると、さらには第二亜界の物質を組み込むまでになる。

    これらの過程で、人は「自身が肉体である」という認識と「自身が魂である」という認識が逆転するようになる。彼はもはや個人とは何の関係もなく、マインドが乗り越えられることで分離感は徐々に喪失するようになる。これは理論的な認識のことではなく、意識内における事実であり、つまり意識の変容を意味する。これが第三イニシエーションへと導く。この時期に初めて、モナドのエネルギーがヘッド・センターからアジュナ・センターへ、さらにはアルタ・メジャー・センターを介して脊柱上を流れ下り、これが脊柱基底に眠るエネルギーを目覚めさせ、いわゆるクンダリーニの火の上昇を可能にさせる。こうして人は焼き尽くされる。

魂の波動に人は最初、耐えられない

高位のエネルギーとは、人間の場合、高位我の媒体であるコーザル体(魂体)を介して流入する、第三亜界以上の抽象波動のことである。この文章は読み過ごされるべきではない。アンターカラナの前半が完了するとき、頭部とこのコーザル体つまり魂との波動的な関係は完全に確立され、脳意識でそれを絶えず認識するようになる。これは見習いの弟子の後半で達成されるだろう。

しかしながら、しばしばその意味が理解されておらず、低位我として高位我の波動を扱うため、どうしてもそれは受容ではなく抵抗であり、そのため多くの弟子がアストラル界の苦痛を乗り越えてもメンタル界の苦痛に苛まれるのである。つまり、高位のエネルギーとまさに自身であるフォース体との衝突の苦痛である。高位の波動が辛く、自我のアストラル的な意識に戻りたいとさえ思わせる強度であり、それは諸体が耐えられないほどのエネルギーである。この時期は弟子に困難をもたらす。ゆえに多くの仲間たちが道を一時的に去っていった。この記事の目的は、この波動的な苦痛から自由になることについて考えるものである。以下に掘り下げていく。

我々は高位の波動とすら関係ない

高位我という概念は相対的なものである。人間にとっての高位我は魂のことである。個別化された魂とは人間の魂のことであり、その断片を魂自体が再吸収する抽出の過程が、記事の序盤にて述べた概要であり、モナドの意志による魂とパーソナリティーの合一である。

魂を介して流れ来る波動が苦しいのは、焦点をまだ低位我に合わせているためである。魂意識を発達させている段階でも、意識は低位我と高位我のどちらかに完全にあるわけではないため、それが低位我寄りである場合、ただ波動を伝導する客体として、それに耐えるのみになってしまう。ここが重要なところである。我々は高位我(魂)である。この認識が次に学ぶべき課題である。それは、そのように意識と認識を変えるだけの話である。いわば考え方の範疇でもある。

高位の波動が流入するとは、いったい何が起こっているのかを知らねばならない。高位亜界の物質の組み込みと、低位亜界の物質の除去の過程である。言い換えると、パーソナリティーのフォースが魂のエネルギーに変性されゆく過程である。魂はメンタル界の第三亜界に最初は位置するため、第三亜界の物質の組み込みを、第四亜界の意識が瞑想や日常を通して行う。

第三亜界の物質が意識内にて優勢になっても、さらには第二亜界の物質の組み込みと、第三亜界以下の物質の除去が目標になり、この秘教的つまりオカルト科学の実践はさらに厳しさを増す。しかしながら、高位亜界の波動は我々である魂の媒体を通して諸体に流れ込むが、我々つまり魂がそれに必ずしも巻き込まれる必要はないのである。そのような秘教的な、つまり物質質料に対する贖いの科学が進行していようとも、純粋な意識それ自体はこの過程の観照者でしかない。このことを思い出し、組み込みと除去の過程に低位我として巻き込まれず、魂としてただ観照すべきである。これが、メンタル界の高位亜界で起こる苦痛の解決法である。言い換えれば、「する」ではなく「在る」を知ること、もしくは、思考と思考の「合間なるもの」への焦点化と、その拡大である。

ちょうど人間が行為者ではないことを学ぶように、魂もまた行為者ではないことを学ばねばならない。ラマナ・マハリシが、「我々はただ気づいていることができるだけである」と言ったのはこのことである。人間意識のとき、魂が行為と高位の源であるが、魂意識のとき、モナドつまり真の根源である生命自体が行為者である。一切の過程において、我々が何かを「する」ということはない。これを学ぶのが瞑想である。つまり、瞑想が導くのは観照である。観照だけが全過程から自由であり、「する」とか「される」とかいう相対性や感覚自体からの自由である。我々は観照者である。行為者意識や行為される意識が、それらをともに乗り越えた観照意識を知ることが自由と呼ばれるものの全体像である。その意識は、既知の何とも関係していない。

最後に

ここまで読み進めてくれた人が何人いるだろうか。一般的には無意味な、難解な、意味不明な内容だが、真の超越において、このくだりは重要である。文章にした途端に無意味なものになるが、それが意味するものには途方もない価値がある。我々は、全的に何の行為者でもない。魂とパーソナリティーの合一はよく語られるが、これすらも「外的」なことである。観照はそれほど「内的」である。それは気づいていることすらも超えた気づいているである。

観照のことを人々はサマーディーと呼んでいる。それは名付けられるべきではないものである。それは全く何でもありえないが、すべてを包含するものである。観照だけが解放である。苦悩や感覚知覚からの一切の自由である。たとえ肉体が動いていようとも、我々が行為者ではなく、我々は一切から自由な観照自体であるということ、このことさえ分かれば、高位の波動が循環し高位の物質の組み込みと低位の物質の除去の周期における教訓は乗り越えられる。この過程の只中ですら、過程という現象から自由であることができる。

「我々は気づいていることができるだけである」。純粋な意識においてこれに気づき、この意識に入っていることが智慧である。観照から外れて行為者という想念が始まるとき、無知が始まりあらゆる苦悩に巻き込まれることになる。高位の波動も同じである。低位我に流れ込む高位我の波動とか、様々な等級の物質の組み込みや除去とか、これらはある側面からすれば事実であるが、それはただの解釈でしかない。つまり事実ではない。事実を話してはいるが、真の事実を覆い隠すものである。知識や想念やマインドの背後にのみ、観照は存在している。人間という分離した行為者の錯覚から、すべてを飲み込む観照へと意識が抽出され撤退されたとき、人間周期の教訓は乗り越えられ、あらゆる現象や過程とは一切無関係になる。この観照だけが、人間というトラウマの時代を癒やす唯一なる至福である。

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