672夜

<苦痛に関して書いた以前の文章からの抜粋>

……その絶望感が幾分強かったため、とつぜん内なる魂と一体化した。それは、絶望するおのれを背後から目撃するという、衝撃的な瞬間であった。そのとき思ったのは次のようなことである。「すべて自作自演だった」。私は魂として苦痛を感じていなかった。ただ絶望している自分を見ていた。自分で問題を作り上げ、それに自分で絶望しているだけだった。これは白けた。このようにして自我は存続しているのかと思った。それからというもの、自我の反応に関心を失い、私は出来事や感情、思考をただ眺めるだけの立場に移行した。それらに反応することは、結局、自作自演の輪の中で踊るに等しい。こうした自我に対する醒めた無関心は、皮肉にも霊的成長を促進する態度へと変容していったのだ。

この過程で、私の内側に非人格的な「何か」が存在することを知った。それはただ静かに観照していいるだけの存在だった。「これはいったい何なのか」という思考が浮かんだが、一つだけ確かなことがあった。それは、この存在と同一化している限り、私という本質は苦しみの中にいない、という純然たる事実であった。

物語の要点はこうだ。自我の動きに執着せず、それを非人格に観察する態度が、自我の存続を妨げる。同時に、魂との融合を促す。これは、日常生活を包含する瞑想である。精神や感情の動きが訪れても、私はそれを静かに見つめるだけである。すべては「見る」という行為で終わるのだ。「見る」には何の動機もない。すべてはただ、淡々と観察されるに過ぎない。こうして、自我の力に妨げられることなく観照が続くようになる。その結果、自我は養分を失い、静かに消滅するのである。

これが、私がアストラル体とメンタル体を統御する際に用いた技法の核心だ。記述は簡潔だが、実際には数多の紆余曲折を経ている。苦闘の中で聖者の教えを試み、その有効性を確認しつつも、最終的には独自の道を切り拓いた。それはすべての旅路を行く者に共通することであろう。他者のヒントを頼りにしながらも、自らの道を発見しなければならないのである。

すべては観念に過ぎず、実践はその遥か彼方にある。アストラル体の統御は自我が担うためまだ救いがあるが、メンタル体の統御は不可能に思えた。挫折の記憶は数えきれない。それでも、試行錯誤を続ける自分自身を無視し、魂として、つまり傍観者としてただ冷静に見守る態度が正しかった。どれほど不可能に見えようとも、ある時、すべてが可能となる。「背後の一箇」が訪れ、全てを支配するのだ。

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