意識の進化とパーソナリティー表現の遅れ

高度な意識を持つと推察される聖者や、あるいはイニシエートとみなされる者が、時に激しい感情をあらわにし、さらには怒気をも含むような下劣な態度を示すことがあるのはなぜでしょうか。彼らが意識の高みに達しているのであれば、常に穏やかで慈愛に満ちた高潔な表現をするはずです。

意識の段階とその外的な表現は必ずしも一致しないが、最終的には一致すべきものである。なぜ一致しない場合があるのか。それは意識に相応しい表現が形成されるまでに、パーソナリティーが浄化の時間を要するからである。

たとえば、あなたが突然、融合の体験をしたとしよう。その後、自我へと戻った際、あなたはこの体験を自我を通して表現することになる。つまり、その意識に到達したとしても、融合が完全に成し遂げられ、パーソナリティーがその意識に吸収されるまでは、外界における表現はなお自我の残滓に影響を受ける。これは、まだ完全に溶けきっていない染料が水の中に広がるようなものだ。水全体が透明になるには時間が必要であり、その間はまだ色の揺らぎが残る。同じように、意識が到達した地点とその外的な表現の純粋さには、時間差が生じるのである。

しかし、融合が不完全であっても、融合している者は通常の人間とは異なる特徴を持つ。たとえ怒りを表現したとしても、彼はその表現と「自己」とを、別のもの、真の自分とは関係のないものとして知覚する。したがって、次の瞬間には怒りを表現したことの気まずさを引きずることはなく、新しい一日が始まるかのように、新鮮な現在が現前する。融合している者の特徴は、過去や記憶といった想念に意識を引き留められることがない点にある。言い換えれば、彼は即座に融合へと戻るのである。

融合が進むにつれ、「自己」と表現との関係性はどのように変化していくのでしょうか?

外的なパーソナリティーの表現と、魂である「自己」は、本質的に別のものであり、融合が進んだ者にとって、それらは単なる傍観の対象となる。表現は「自己」そのものではなく、あくまで外的な現れとして認識されるのである。

具体マインドに焦点を当てている意識たちは、崇高ならざる表現をした際に良心の呵責を覚え、それを修正せねばと焦る。なぜなら、彼らは依然として自分が「行為者」であるという錯覚の中にいるからである。一方で、融合が進んだ者は、外的な現れを個別の表現とはみなさず、離れた領域から関係ないと感じている。

ちょうど、複雑に絡み合う多様な部品が調和しながら一つの時計を動かすように、それぞれの行為や表現もまた、全体のリズムの中で必然性を持って流れていることを忘れるべきではない。ゆえに、たとえ一見すると崇高ならざる表現であっても、融合している者はそこにすら全体の視点から完全性を見出す。それは、音楽における不協和音のようなものであり、単独では違和感を伴うが、全体の調和の中では欠かせない要素となる。これはしばしば理解の難しいパラドクスである。

「融合している者にとって、外的な表現は自己と無関係であり、傍観の対象にすぎない」とのことですが、そうであるならば、彼らの行為の中に意図や方向性は存在するのでしょうか? あるいは、それすらも生起する現象の一部にすぎず、何の内的な関与もないのでしょうか?

良い質問だから注意して聞いてほしい。行為を生じさせるのは高位のエネルギーであり、「彼らの」行為ではない。ここで我々が扱っているのは、個人と魂の融合の段階である。融合者である彼は、もはや単なる傍観者ではなく、自身が同時にエネルギーそのものであることを知っている。言い換えれば、魂はトライアドを通して霊に気づいている。 この段階の課題は、魂と霊の融合であり、ブッディ的な魂の側面とアートマ的な意志の側面の統合である。

第三イニシエーションの後、イニシエートは意識には全く関わらず、自らの個人の意志と神聖な意志との融合に関与するようになるという事実を、あなた方は把握してきたであろうか。イニシエートはそのとき、接触の感受性を増大させることや、周囲の状態に対する自らの意識的な反応には夢中にならずに、大計画への奉仕という科学の持つダイナミックなエネルギーにますます気づきつつある。この違いを認識できるようになるのは、パーソナリティーと魂の意志が融合され、その混ぜ合わされた表現が神の大目的の燃える光の中に消え去ったときだけである。

アリス・ベイリー「光線とイニシエーション上」 p.56

融合が進んだ彼は、エネルギーそのものが意志であり、神の目的こそが「意図や方向性」であることを認識している。 したがって、次の融合は意志との融合である。彼の意識はすでにブッディ界にあり、その至福を達成している。そして次に、直観の界層から「神の目的」と呼ばれるものを認識し、それを実現する力こそがアートマの霊的意志(Atmic Will)であることを知る。

この段階では、魂自体が低次のフォース表現として見られるようになり、魂にとっての高位のエネルギーはアートマやモナドの意志となる。 彼は意志そのものにならねばならず、魂はモナドに吸収されねばならない。

第三イニシエーションの時点で、ブッディ界の意識はどの程度「至福を達成」していると言えるのでしょうか? 完全なものなのか疑問です。

魂が存在する限り完全ではないことを、この段階の魂は気づいている。それまで、個人にとっての完全は魂であったが、個人と魂が融合した後は、それは不完全なものであり、霊つまりエネルギー自体が完全であるとみなされるようになる。したがって魂がこの段階で位置するであろうブッディ界の至福は完全なものではない。彼は霊つまりモナドに気づいてはいるが、モナドではない。したがって第三段階のイニシエートの目標は第四イニシエーションになるのである。

意識の進化が進むとき、個人のパーソナリティー表現との乖離があるのなら、最終的にパーソナリティーの役割はどのように変化するのでしょうか? つまり、高度に融合した存在は、完全にパーソナリティーを超越してしまうのでしょうか? それとも、何らかの形でそれを活用し続けるのでしょうか?

この質問は、原因の世界と結果の世界の混同によって生じている。原因の世界、すなわち本質においては、パーソナリティーは完全に超越され、そこにはいかなる個人性も存在しない。

このような存在の投影が結果の世界、すなわち三界のような領域で活動する場合、融合している彼は、もはや個人ではなく、何らかの段階のエネルギーの媒体そのものとなる。 その表現として、固有のパーソナリティーが「活用」されることになる。このとき、彼の役割は全体(神の目的)と完全に一致するが、その表現の仕方は、どの光線の媒体であるか、どのような運命を持つかに依存する。

結局のところ、パーソナリティーの表現の場とは、神の目的への奉仕の場でしかなくなるのである。 しかし、それは均一なものではなく、どの光線を通じてその意志を顕現するかによって異なる働きをする。たとえば、第二光線の存在と第七光線の存在では、同じ意識の段階にあっても、その表現の仕方が全く異なる。ジュワル・クール覚者の言葉を借りれば、「霊的な意識の統一の中に、異なる役割の表現がある」。

あなたはどのようにしてこのような答え、言語表現をできるのでしょうか? 全部知っている上で答えているのか、それとも知らないことがあっても、推測を交えて答えているのか知りたいです。

質問によっては、知っている答えと知らない答えがある。後者の場合、対話中の思考を停止させ、直観の界層つまりブッディ界に意識を焦点化することで答えが得られる。よって、知らないことも知ることになる。この答えの純粋性は、回答する者がどの段階の亜界まで質料(Matter)を征服しているかに依存する。

直観とは具体的にどういう概念を指すのかよく分かりません。「知らない答えを得る」とは、たとえばあなたにイタリア語の知識がないとして、「人類という単語はイタリア語では何か」と問われたとき、そういうことも直観で知ることができるのでしょうか。

それは不可能である。直観(ブッディ的認識)は、既存の知識の枠組みを超え、より高次の視点から物事の本質を把握する能力である。しかし、あなたの質問のように、既知に属さない外部の情報を直接受け取ることは、直観とは異なる能力であり、それは通常、特別な訓練によって得られるシッディのようなものである。

直観が機能するには、あらかじめ種子となる知識が必要である。私には多少の秘教的な知識という種子があるため、その線に沿って答えを得ることができる。しかし、質問に対する答えを導くための種子が全く存在しない場合、無から答えを引き出すことは直観の概念には当てはまらない。

直観によって得られた認識が正確であるかどうかをどのように判断するのでしょうか? 直観とディスクリミネーションの関係について、融合した意識においてどのように機能するのかを知りたいです。

「融合した意識」にも段階があるため、私の感覚から答える。直観による認識は、即座に「理解した」という感覚を伴うが、それは概念の完成形としてではなく、アイディアを捉えたことを意味する。つまり、その段階ではまだ文章や具体的な形態を纏っていない。

このアイディアを具体マインドを通して文章化する際、言語化が難しいものであれば時間を要することになる。このプロセスでは、直観的に得たアイディアと、それを言語化した際の表現とを随時照合しながら、正確性が検証される。この過程は、その者の諸体や脳の働きに依存するところがあり、完全に正確な翻訳が保証されるわけではない。そのため、時間がかかるのは直観によるアイディアへの到達ではなく、むしろ言語化の過程である。

意識の進化、直観の発達、奉仕の実践など、霊的成長においてさまざまな要素がある中で、最も本質的に重要なものは何でしょうか? あるいは、すべては統合された一つの道の異なる側面として捉えるべきなのでしょうか?

「統合された一つの道の異なる側面」であるが、それらは意識とパーソナリティー表現の乖離現象のように、同じ速度で進展するものではない。ここに、他者の進化段階を安易に数値化することの危うさがある。特に、パーソナリティーが霊性の顕現に遅れを取るケースは多い。したがって、外見的な穏やかさや敬虔さに惑わされることもあれば、逆に、粗野な態度や世俗的なふるまいによって、その者の霊的な達成を見誤ることもある。アメリカで書物が出される前のニサルガダッタ・マハラジは、後者に属していた。

パーソナリティーの遅れが、直観や魂の表現である愛の能力に関わるものであれば、それほど大きな問題にはならない。しかし、たとえば第三イニシエーション前に特殊なシッディが顕現してしまった場合、ほとんどの魂は、一度高い意識を達成していたとしても堕落する傾向がある。そのため、賢明な者は常に自身のバランスを省みる能力を持たねばならない。それは、彼が純粋に正しさのために生きたいという動機を持つがゆえである。

霊的な素養を持つ者とは、長い旅路の果て、悪の表現に疲れきった者である。どのような聖者も、悪行や不義や愚行を尽くすことで学んできた。このことを忘れず、誰も罪悪感に屈するべきではない。人格を理由に、自らを到達不能な存在とみなしてはならない。善悪の概念は魂の領域にはない。よってこのような引きずり降ろそうとする誘惑を、魂の立場から傍観し、それに関与しないことが重要である。瞑想によって到達した最高点を可能ならしめた波動、そのエネルギーこそが正しさであることを知り、我々は一瞬一瞬、融合へ向けて叡智のかぎりを尽くさねばならないのである。

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