イニシエーションの道において苦痛の大部分が打ち消される。それは、イニシエートが苦痛を避けようと努力するからではなく、望ましくない接触に対する形態の感受性が消え去り、それにより苦痛もまた消え去るからである。苦痛は形態の守護者であり、質料の保護者であり、危険に関する警告を発する。苦痛は進化過程においていくつかの明確な段階を示し、魂が自らを質料と同一化するための原理に関係している。この同一化が止んだとき、苦痛と病気、そして死もまた、弟子を捕える力を失う。魂はもはやそれらの要求に支配されることはなくなり、人間は自由になる。
アリス・ベイリー「秘教治療 下」 p.146
苦痛や、人間生活における日々の苦闘の感覚は、やがて全く生じなくなる。それは、「望ましくない接触に対する形態の感受性が消え去り、それにより苦痛もまた消え去るからである」と引用は述べているが、「望ましくない接触」とは何のことだろうか。それは望ましくない同一化であり、それは人間の意識内における形態や質料との同一化であり、つまりは、個人との同一化である。個人や自我意識というものは、想像や想念との同一化の結果であり、真の弟子はこれらと関わらない。心やマインドや情緒と関わらないことで、魂の高みに達するのである。魂の高みとは、波動的な高みであり、人間意識が感じる苦痛や苦悩という低い波動が接触できる領域ではない。つまり、魂は苦痛を知らない。
真の恒久的な癒やしは、あるいはその鍵は、魂にある。これを人類が受け入れてくれたらと思う。苦しくなくなり、人類は互いを傷つけ合う必要がなくなり、すべての人間が喜びに満ち溢れるようになる。今、苦しむ人に何が言えるであろうか。おそらく、「苦しくて良い」というその受容である。苦痛とは、ニサルガダッタ・マハラジの言葉を借りるならば、「抵抗したとき苦しく、受け入れたとき快いという体験になる」。受け入れるとは、受け入れようと努力することではなく、そのままで良いという理解、個人に対する無関心と関係がある。形態や質料との同一化から、それらに対する無関係という感覚は、魂に由来するものである。魂が吹き込まれた人間は、苦痛をそのまま見て、そこから直接、快い幸福な意識に入ることができるようになる。だから、魂を求めようではないか。
瞑想は、低い波動を発するどのような形態との同一化も消し去り、意識しているかどうかは別として、魂の個人に対する「望ましくない接触」の傾向を打ち消すための働きかけを促進する。瞑想の真の意味は、魂的な在り方であり、通常の人間が瞑想しようとするいかなる努力とも無関係である。よって、瞑想方法という個人が行うものは、すべて魂とは関係がなく、魂の認識を妨げるものである。瞑想を始めて間もない頃は、人間は瞑想に方法があると考える。やがて、そのような個人が瞑想を妨げていることを発見する。こうして個人は静かになる。降参する。自分には何もできないことを知る。こうして、自身のどのような性質も、受け入れられる。抵抗というものがなくなる。そのままで良いことが知られる。結果として、自分自身には関心がなくなり、自分自身の成長や個人的な運命に対する関心もまた消え去る。瞑想を介した、この魂による個人の希釈化作用が、やがて人間に真の自己である魂を発見させるのである。
魂を発見するとは、魂の意識領域に入るということである。この領域では、至福と平和が広がっている。もう、どのような衝突もそこにはないのである。そして人間は悟る。「私は苦しみから救われました」と言う。もはや、いっさい苦しむ必要がなくなるのである。人間は間違いを犯し、それによって苦しみ、苦しみによって間違いの意味を知り、霊的な正しさが何を要求し、何を捨て去るよう教えているのかを理解する。苦痛は間違いの警告であり、人間の役目は、その間違いを恐れることなく見ることである。こうして、苦痛を避けるということの無意味さを知り、苦痛は、人間の意識をより深い魂の意識へいざなう偉大な作用があることに気づく。傷ついた個人は、魂という真の癒しに入り、このお方が救い主であり、キリスト原理であることを理解する。そしてこの内なる覚者が自分になる。そして、真我以外すべてが苦痛であることを理解し、真我でないものとの接触つまり同一化は必要がなくなるのである。
瞑想とは、結局のところ、魂そのものである。よって瞑想を知るとは、魂を知ることである。瞑想しているのは魂だからである。その在り方、瞑想状態を個人に教えるのは、内なる魂をおいて他に存在しない。だから、外の世界の覚者や教師は、瞑想する者にとって不要なものである。多くの人が深く理解する必要があるのは、誰かの助けというものがいらないように、助け自体がすべての存在に備えつけられているということである。よって真の探求者は、自分自身で事足りることを知り、自分自身の奥深いところだけを探求する。それは、到達しようとか、発見しようとか、そのような抵抗によるものではなく、「私自身で在ること」によって知られるものである。つまり、どのような努力もそこには導かないが、どのような努力もなくなるならば、すでにわれわれは真我なのである。
すべての人、つまりすべての私が救われますように。これだけが願いである。