道とは私である

弟子道に限らず、求道、仏道、八正道、あるいは中道など、「道」の付く言葉は多い。一般的に、道とは歩むものであり、始点から終点へと歩を進める道程にして旅路である。しかし、この思想は霊的には誤りである。何度でも言うが、オカルトの格言は、「道を歩む前に道そのものにならなければならない」と言う。これは、霊的な道が、歩むとか、辿るとか、立ち向かうとか、跋渉するとか、いかなる行為でもないことを示している。つまり道とは、行為ではなく存在の状態なのである。霊的探求者のほとんどが、これを知らないことが問題である。例えば悟りが、道を通してどこかよそにあると思っている。厳しい修行の果てに見出される神秘不可思議なる何かが道の終わりに見出されると思っている。そうではなく、私が悟りである。この今、自我というヴェールの背後に、真我という本物が在る。どのような物質の背後にも空間が存在するようなものである。我々はマインドで生成されたあらゆる思考とそのまま同一化し、それに沿った世界を見て感じている。すべてを生み出した原因とは何か。あるいは、すべてを我として包含する原初の原因とは何か。自我意識で隠れているが、その背後に道そのものが在る。純粋意識としての我であり、それを可能にしている生命自体が在る。それは今在る。たったこれだけのことを理解した者を悟った者と言うのである。となると、悟りとは、最初から在る私、「最初」などという時間的な用語を超えて常に在る私、この現在に在る永遠なる私、それは、考えて分かるものではない。マインドで理解できるものではない。「道を歩む者」ではなく、「道そのもの」になったとき、初めて真我や悟りといった大仰な神秘的語彙で分からなくさせられていた「私自体」が理解されるだろう。それまでは、自我として求道していると錯覚するだろうが、諸体が魂に制圧された後、我々は「道そのもの」と「私」が同一であることを理解する。これが、我々の頭では理解できない高次の道の始まりであり、この秘められた道、秘められた真我を見出した者、そしてそれを平常の意識状態に変容し終えた者が、理論的には(第三段階の)イニシエートである。Initiateとは、文字通り、開始することであり、新加入者である。イニシエーションとは、霊的王国の認識の始まりを意味している。したがって第五段階のイニシエートは次のように言う。

霊の目的は意識の拡大ではなく、そのような意識の拡大が啓示するものの拡大である。

アリス・ベイリー「新時代の弟子道6」p.50

だから本来、悟った者は存在しないのである。「意識の拡大が啓示するもの」がマインドを通して肉体脳まで貫通し、人間の姿を纏いながらそれを認識しているマインドを持つ人間がいるだけである。そこには、もはや「者」はいない。あるいは、無い。「者」とは、この世の分離した世界の個別の形態であり、「意識の拡大が啓示するもの」は、形態の背後の一なる生命と、その生命の目的に関するものである。命は不可分の実在であり、つまり実際に在るものである。形態は仮象であり、壊れたり変化したりあらゆる形を取るだけの幻であり、実際に在るわけではない。そう見えるだけである。もし見えるだけの者を実在として受け入れ、私とそれ以外のあらゆるものとして分離するならば、我すらもまた形態と思うがゆえ、意識できるかは別として、その者は恐怖に完全に支配されている。それはひどく苦しんでいる状態である。地獄の概念は分離した自我意識のことを言っており、天国の概念は一なる真我のことを指している。それらは死後の世界にあるのではなく、意識レベルの問題である。

無知のまま、道の先に到達点があると思い込み、間違った修行や努力に励み、かえって自我を拡大している者だらけである。私は彼らに腰を下ろしてもらいたい。道は歩むものではないことを理解してもらいたい。責任から自由になり、安堵してもらいたい。進化段階の低い者から高い者へと挑もうという錯覚の終わりが、この自己認識にあることを知ってもらいたい。自己認識とは何か。それは自己存在である。「私は在る」である。最初から、我々は存在している感覚があるが、その感覚の上に、あるいは周囲に、私が特定の個人であるという強固な想念が立ちはだかっているのである。これを秘教徒は敷居の住者と呼んだ。住者の反対が天使であり、簡単に言えば、個我の反対が魂であり、この融合を通して住者つまり自我は「消え去り、二度と現れなくなるであろう――それはまだ天使の代理人として外界で機能するであろうが。光が住者を吸収する。その形態は依然として保たれるが、――光り輝く磁力的な――暗黒へとこの古い生命形態は崩壊する。それは留まり、働くが、もはやそのものではなくなる」とDKがしばしば引用する『いにしえの注釈書』には書いてある。

余計にややこしくなったかもしれない。分かる者には光を投げかけるが、分からないときには意味不明である。私は、自我に強烈な打撃を加えたい。霊的探求者のほとんどが何も見出さずに諦めるのは、自我が元気すぎるためである。人生や出来事は、結局のところ、自我に打撃を与えることがその最高目的である。そして、自我によって自我に打撃を加えることは不可能である。闇に闇で対処しても全く無意味である。多くの修行者がしているのはこれである。闇に光を持ってくるという発想、そして自分である闇に対して、別のところから立ち現れた光が闇を追い払う、もしくは光で覆い包み、癒やし融合させるということを知るならば、もっと瞑想は賢明なものになるだろう。本物に委ねるということ、本物に明け渡すということの真意を至福のなかで理解するだろう。だからラマナ・マハルシは言っている。

真我探究で起こることは、『私』という想念が消え去り、探究を始めた『私』ではなく、深淵から別の何かが現れ、あなたをつかむのである。

ラマナ・マハルシ「あるがままに」p.102

深淵から現れる別の何か――これが住者に対する天使である。個我に対する真我、パーソナリティーに対する魂である。これが現れたならば、後の面倒はすべてそれが見るとマハルシは断言している。しかし、この高次の対照を人間の脳意識が理解するためには、双方をつなぐ橋(アンターカラナ)の構築が必要である。それは瞑想によって達成される。構築方法がどこにも述べられていないのは、それは方法によって構築されるものではないからである。方法や行為は自我に属する。橋を構築するのは自我ではない。あるいは、反対側からトンネルを掘ってくれているのは自我ではない。自我の背後に真我は在る。この意味で、真我はすでに実現されているが、アンターカラナの前半が構築されていない場合、人間には認識不可能である。この話が事実であることをあらゆる初心者が知っている。聖者の書物の内容が自分にとって現実ではないことを誰もが経験する。それはアンターカラナで個我と魂を連結させた後に理解できるものである、という注釈が必要なのである。したがってDKが「新しい時代の教育」という本を書いたとき、その新時代の教育の主になる教えの一つがアンターカラナであると言った。このようなことが書かれほとんど誰もが入手できる本して存在していることに私は感謝する。

自我は、己が邪魔をしていることを理解せずに、己で「どうすればいいのか」を知りたがる。方法論や理論や具体的な話を知りたがる。そのような欲求と関わっている時点で、すでに自我に騙されているのである。瞑想は、この意味で、最初は観察的である。わき起こる想念を認識し、次にそれを外部から眺め、意識的に捨て去る。つまり興味の対象から外す。これは、極めて鋭敏な意識状態でなければ無理だろう。知らぬ内に想念にもっていかれる。それはそれで構わないのだが、想念の背後のものを認識していることが重要である。しかし最初から認識できはしない。かといって自我でどうすることもできはしない。瞑想し、静かにしており、その静けさに満足や心地の良さを感じていることしか最初はできないだろう。

長いからそろそろ終わるが、私が瞑想を始めたとき、何か瞑想法があると錯覚し、いろいろ試した。結論を言うと、瞑想法はなかった。それは自我がすることだった。自我でないものが「深淵から立ち現れ」、あらゆる霊的事実を自我に教え、自我が喜んでそれに従いたくなるように、まさにうっとりさせられた。それは素晴らしいものだった。それ以上に素晴らしいものはこの世には存在できないのである。マインドが超越され、静かになり、存在すると思われたすべてはおのが深淵へと没し去り、天上このうえない愛と喜びに満たされた。これによってしか魂は充足できないことを理解した。それは「I AM」である。それを認識している状態は「I AM THAT」だが、それ自体は「I AM」である。つまり存在の状態を意味しており、瞑想法などなく、達成されるものでもなく、求めていたものは、ただ私だったのである。神とは私だったのである。神と私は分離したことがなかったのである。だから、ここで言っている「私」とは、魂であり純粋意識であるが、そのような拡大された意識が啓示するものとは普遍的命そのものである。

自我瞑想が終わるのは、自我ではないものが瞑想に立ち現れたときである。方法などが止んだときである。行為が、高位我によってなくなったときである。別の力が顕現するのである。それを真我顕現と言っている。真我が顕現し始める。これに関するDKの文章で要点であるところのものを指し示し終わりにする。

努力し統御しようとする初期段階において、人間が努力を行う三界での影響力に関して、住者が陽であり、魂は陰である。次に、揺れ動きの時期が訪れ、どちらの面も優勢ではない平衡状態の人生が訪れる。その後、バランスは変化し、パーソナリティーが着実に陰になり、魂が優勢になり陽になる。

「グラマー」p.187
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