神以外に助ける者はいない。神は真我である。個人の私を捨て、魂として生きれるようになることが最初の偉大な目標である。しかし、魂ですら霊すなわち生命なしには存在できないことを知り、一切の背後の普遍的な生命エネルギーに溶け込まねばならぬ。この一なる生命が私であり、神であることを知るとき、その者は助けられたのである。この、助ける力がどのようなときも、またどのような事の背後にも常に存在している。眉の上あたりまで降りてくる魂のフォースを知る者はますます増えている。そのエネルギーを通して、魂に諸体と意識を整列させ、そこに霊的な心地よさを味わい、喜んで、進んで、自発的に、集中できるありがたさに没頭し、個人意識を超越し、個人から自由になることができる。我々は決して死にゆく個人ではなく、死なない魂であるというブッディ意識が達成されたとき、そしてそれが日常の意識になったとき、第三イニシエーションが起こるだろう。各々のイニシエーションはそれが許されたとき、その意識や波動から堕ちることを防ぐ安定させる力が与えられる。こうして、我々を助けるのは神と、神の系譜に連なるきわめて純粋な存在方だけであることを知るようになり、個人ではなく神に仕えることの喜びと美しさを知る者が人類から誕生するようになる。このような意識は神の計画へと向かう意志、人々がシャンバラと呼ぶ源から発せられ、神の系譜に連なる方々によって管理された意志のエネルギーとますます一致できるようになり、奉仕以外に重要なことはないという聖人方の言葉を理解するようになる。そして、助けられる存在ではなく、助ける力が流れ込むようになる。こうして個人でしかなかった者も、あらゆる失敗から学び、真理と法則に従順になり、神直属の奉仕者の集団に加わることが許されるまでになる。
神は素晴らしい。神だけが素晴らしい。それ以外は錯覚であり、存在するのは神だけである。これを我として実感することが目覚めである。また真の改心である。個人に生きてはならない。危険すぎる。分離した個人意識ほど恐ろしいものはない。そのような意識は悲惨の極みである。助けられない意識である。個人の主張から大人しくなるために、常に瞑想を活用することができる。また、絶対に善にのみ生きようという願いが生まれねばならぬであろう。どのような悪事や悪意にも、もはや耐えられないという気にならねばならぬ。瞑想で神の意志とエネルギーを知り、個人的な意志やフォースはそのような神性を体現する意志とエネルギーに取って代わられねばならず、そうでなければ我々は助からない。我々の助けとは、個人からの自由である。分離意識からの脱獄である。この世の幸せや、この世で欲しいものが与えられることは助けではない。個人が神の域に引き上げられることが人間においては唯一の助けである。これ以外はすべて耐え難き苦痛である。
私は長い間、なぜ自分が苦痛に常に見舞われているのか分からなかった。明らかに、この世のことで苦しんでいるわけではなかった。この世的にはむしろ私は恵まれすぎていた。それなのに、常に自殺だけが救いであり助けであると思わずにいられないほど耐えられない苦痛に苦しまねばならぬ意味が分からなかった。しかし、瞑想でついに苦痛の原因を理解した。つまり、苦痛が全く存在しない真の幸福な意識に到達した。苦痛の原因は個人である私という錯覚にあった。個人が高位の力によって捨て去られ、意識が魂と調和しさえすればすでに天国だった。私は個人から自由になることで助けられた。自殺という愚かな手法を取らずにすんだ。それどころか、意識は素晴らしく、またその素晴らしさを賛美し、讃えずにはいられないほど美しいものであった。神は美であった。したがって、すべての背後に我である神を知る者にとっては、すべてが美しくなるのである。我々が個人という錯覚を瞑想で看破し、我と神が一体であることに目覚め、個人ではなく神に生きることの美しさ素晴らしさ喜ばしさに燦然と輝き、愛そのものに満たされ奉仕すなわち神の意志にのみ生きれることほど素晴らしきことは存在せぬことに喜べるようになるとき、我々は助けられたのである。神しか我々を助けることはできぬことをはっきり知るであろう。
苦しみは、神ではなく個人に生きたとき、つまり個人的な行為や意識に生きたときに確実に生じる感覚である。長い間、転生周期の終盤になるまで、人間はこの種の苦痛を知覚できないようである。自分が好きだとか、個人を輝かせることの喜びだとか、個人の幸せであるとか、霊的に見れば悲惨なものに生き、それでいて苦痛を知覚していないことを我々は観察する。人類は基本的に苦痛を感じていない。個人が自分であるという耐えることの難しい苦痛意識からは一時的に自由であり、その苦痛からの自由によって、個人という経験を積むことが可能になっており、ひたすらに個人の快や幸福の追求が行われている。これでは、神は助けようがない。個人とは神の否定である。個人に生きながら神が助けぬことに不平を言う者は、かなり無知である。もっと知的になり、個人という主張が神をかき消していることを瞑想で知らねばならぬ。神が常に我々を助けようとしていることを、瞑想でいずれ誰もが知るだろう。神の助けがなかったのは、自分が個人に生きることで神に向いていなかったからであることを単純に理解するだろう。個人は静められねばならぬ。個人意識が全苦痛の原因であることを理解せねばならぬ。瞑想で魂を呼び込み、個人の力や意志よりも、魂の力や意志の方が優勢になるよう、慎重におのれを引き上げねばならぬ。時間はかかるし、定期的に個人に生きることで失敗もするであろう。照らされるとは、良いものだけに限らず、自身に内在する悪もまた照らされることを意味するゆえ、必ずどうしようもなく内在する悪に条件づけられるという失敗が起こる。そのようなものであるゆえ、失敗してもおのれを責めてはならない。常に個人や個人の情緒からは自由で、背後からただ傍観するだけになり、揺れ動かず、相反する対をなすものの中道だけに位置し、それが神への道であると知り、徐々に個人からは自由にならねば神の明るい未来はない。
したがって、苦しむ者は幸いなり。苦痛を知る者だけが素質がある。苦痛が分からぬ者は、そのまま個人で遊び続けるだろう。そんなことはもう断じて耐えられないと個人はいつか言うだろう。私は個人と全く関わりたくもないと言うほど個人には懲りるであろう。個人とは、阿呆である。きわめてどうしようもない。個人という無知の自縛から自由になる方法は神しかない。人間にとっての神は魂である。魂にとっての神は霊つまり生命自体である。個人は呪われている。個人で個人の呪いを解くことはできない。神の力を我が内に呼び込み、最初は魂に我と我が身を捧げ、個人を完全に犠牲にし、そうすることで、苦しみではなく、神の大愛に包まれるであろう。神の偉大さを知るであろう。したがって瞑想の力というものには計り知れないものがある。平均的な人類は経験を積むことで霊的に知的になることが目標であるが、もはや経験という経験から学びつくした者は、経験や輪廻は不要なものでしかなく、個人は無関心の対象でしかなくなり、神だけが関心の対象になるであろう。神に助けられないのは自身に何かしらの問題がある。瞑想と魂の力で諸体を浄化せねばならぬ。こうしてますます、日に日に瞑想で純粋となり、良き器に良き力が注がれることと、その美しさや素晴らしさに対する感謝の念が育まれるだろう。こうして人間は、私は神に助けられたと言うようになるであろう。その後、完全な沈黙に没し去るであろう。一つの長かった周期の終わりであり、人間の卒業である。
